大判例

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札幌高等裁判所 昭和32年(う)229号 判決

本籍 北海道上川郡比布村字比布北一線六号三六番地

住居 不詳

団体役員 村上国治

大正一二年一月五日生

本籍 愛知県中島郡稲沢町大字坂田

住居 長野市南石堂町一五四番戸 村手順吉方(現在 松本市蟻ヶ崎城西病院入院中)

無職 村手宏光

昭年四年二月二〇日生

右村上被告人に対する爆発物取締罰則違反、団体等規正令違反、地方税法違反、銃砲刀剣類等所持取締令違反、火薬類取締法違反、業務妨害、汽車往来危険未遂、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、脅迫、傷害、殺人、村手被告人に対する脅迫、暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、殺人幇助各被告事件について、昭和三二年五月七日札幌地方裁判所が宣告した判決に対し、被告人らから控訴の申立てがあつたので、当裁判所は、検事升田律芳出席、取り調べの上、左のとおり判決する。

主文

原判決中被告人村上国治に関する部分を破棄する。

被告人村上国治を懲役二〇年に処する。

同被告人に対し、原審における未決勾留日数中五〇〇日を右本刑に算入する。

同被告人から、領置にかかる発射弾二個(昭和二八年領第二六一号の証第二〇七、二〇八号)、撃ち殻薬きよう一個(前同領号の証第一八七号)、命中弾丸一個(前同領号の証第二〇六号)、ビラ七五枚(前同領号の証第四二号)を没収する。

被告人村手宏光の本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、被告人両名の弁護人杉之原舜一、同岡林辰雄、同青柳盛雄外六名(青柳盛雄、佐藤義也、高島謙一、中田直人、大塚一男、竹沢哲夫、倉田哲治以上七名連名)、同鎌田勇五郎、被告人村上国治提出の各控訴趣意書、右鎌田弁護人提出の控訴趣意補充書及び村上被告人提出の控訴趣意書の補充書記載のとおりであり、これに対する答弁は札幌高等検察庁検察官検事升田律芳提出の答弁書、答弁補充書及び答弁書の一部訂正申立書と題する書面記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。(注)本判決の用語例

一、原審証拠とは原判決挙示の証拠を意味し、その下の〔 〕内の数字は、原判決証拠説明欄の番号を意味する。

一、裁判官の証人尋問調書、検察官に対する供述調書、司法警察員に対する供述調書は、特別のものを除き、左の例による。

(1)  28、8、6石川正止郎の岩尾裁判官調書は、裁判官岩尾保五郎の証人石川正止郎に対する昭和二八年八月六日附証人尋問調書の略。

(2)  28、11、6村手順吉の久保検察官調書は、村手順吉の検察官久保哲男に対する昭和二八年一一月六日附供述調書の略。

(3)  28、12、22森岩男の田中警察官調書は、森岩男の司法警察員田中正章に対する昭和二八年一二月二二日附供述調書の略。

一、磯部鑑定書とは原審鑑定人磯部孝の作成した鑑定書の、岡本鑑定書とは当審鑑定人岡本剛の作成した鑑定書の、磯部供述とは原審証人磯部孝に対する証人尋問調書に記載されている供述の略。

一、宮原鑑定書とは宮原将平作成の「銅の腐しよくに関する二、三の実験」と題する書面の略。

一、増山回答書とは増山元三郎作成の昭和三一年一〇月六日附回答書と題する書面の略。

一、第一回手記とは領置にかかる追平雍嘉の第一回目の手記(証第二二一号)の、手記調書とは同人の手記を内容とする28・5・29安倍検察官調書の略。

一、日共とは日本共産党の、札幌委員会とは日本共産党札幌委員会の、地方委員会とは日本共産党北海道地方委員会の、中自隊とは中核自衛隊の略。

一、五全協とは日本共産党第五回全国協議会の略。

一、国鉄とは日本国有鉄道の、北大とは北海道大学の、民科とは民主主義科学者協会の、社研とは社会科学研究会の略。

一、高田市長とは札幌市長高田富与の、塩谷検事とは札幌地方検察庁検察官検事塩谷千冬の、白鳥課長とは札幌市警察本部警備課長警部白鳥一雄の略。

一、団規令とは団体等規正令の、刑訴法とは刑事訴訟法の、暴力行為等処罰法とは暴力行為等処罰に関する法律の略。

一、判文中月日のみ記載し、年の記載がない分は、昭和二七年を意味する。

右各控訴趣意に対する当裁判所の判断は、次のとおりである。

第一―第三≪省略≫

第四

岡林弁護人の控訴趣意第二点、杉之原弁護人の同第二の一〇の(九)、青柳弁護人らの同第二、第三点、鎌田弁護人の同第四点、同弁護人の補充控訴趣意第一及び村上被告人の控訴趣意第一の(十四)(原判決は、原審証拠〔五〇〕〔五一〕〔二二〇〕の弾丸―原判示証第二〇七号、第二〇八号、第二〇六号弾丸―及びこれに関する鑑定書等に対する採証法則の違反、その証拠価値に対する不当な判断等による理由の不備もしくは理由のくいちがいがあるとの主張)について。

(一)  原判決は、原判示白鳥事件の事実認定の証拠に供した磯部鑑定書〔二三四〕及び磯部供述〔二三五〕の中から、確率計算に関する部分を除外しているが、同証拠は、原判示証第二〇六号ないし第二〇八号の三個の弾丸が、異なつた拳銃から発射されたものとする確率が、一兆分の一にすぎないという確率計算を要素とするものであつて、これを除いたその余の部分のみを証拠として採用したのは、採証の法則を誤まり、ひいて理由の不備もしくは理由のくいちがいがあるとの主張についてまず判断する。

原判決が、磯部鑑定書及び磯部供述を証拠として採用するにあたり、確率計算に関する部分を除外していること及び右証拠によつて原判示白鳥事件の罪となるべき事実を認定する間接事実として、右三個の弾丸は、いずれも公称口径七・六五ミリブローニング自動装てん式拳銃または同型式の腔線を有する拳銃より発射されたものと認められる旨及び右三個の弾丸の線条こんには、きわめて類似する一致点が存する旨認定していることは、原判文に徴し明らかである。右間接事実の中、右三個の弾丸は、いずれも、公称口径七・六五ミリブローニング自動装てん式拳銃または同型式の腔線を有する拳銃より発射されたものと認めるとの部分は、右鑑定書中、鑑定の結果(四)の記載及びこれに照応する同鑑定書中の鑑定の経過に関する記載と、磯部供述中のこれに関する供述記載とを総合して認定したものと推察されるのであつて、所論確率計算に関する部分とは、直接の関係がないものといえる。つぎに右関接事実の中、右三個の弾丸の線条こんには、きわめて類似する一致点が存するとの部分は、磯部鑑定書中鑑定の結果(五)として、「三弾丸の線条こんを比較顕微鏡を用い、たがいに比較対照した結果、一号(証第二〇六号)と二号(証第二〇七号)、一号と三号(証第二〇八号)、二号と三号のいずれにも、きわめて類似する一致点が発見された。この一致点を検討した結果によれば、一号と二号ならびに一号と三号弾丸が、仮に異なる銃器によつて発射されたとするならば、現弾丸に見られるごとき線条こんの一致の生起する確率は、きわめて小さく、大きく見積つても一兆分の一より小さいことが認められる旨の記載の中、その前段の部分と、同鑑定書中これに照応する鑑定経過の部分ならびに磯部供述中これに照応する供述とを総合して認定したものであること、かつ、原判決が、右確率計算に関する部分を除外したのは、原審証人宮原将平の原審第七四回公判廷における供述及び増山回答書等と対比し、右確率計算に関する部分は、信頼性に乏しいとの心証をえたことによるものと推察されるのである。さて、所論は、右(五)の鑑定の結果中確率計算に関する部分は、その要素をなすものであるから、これを除いたその余の部分のみを証拠に採るのは、採証の法則に反すると主張するから、この点について、さらに考察するに、右(五)の鑑定の結果は、右三個の弾丸の発射に使用された各銃器は同一であるかまたは異なる銃器であるかとの鑑定事項にこたえるものであることは、右鑑定書の記載に徴し明らかであるから、(五)の鑑定の結果中、その前段の記載と後段の記載が、きわめて密接な関連をもつものであることはいうまでもないが、しかし採証上必ずしも一体不可分のものとして扱わねばならないものとは解せられない。何となれば、その前段の記載は、右三個の弾丸を、比較顕微鏡や拡大写真によつて比較対照し、観察した結果を記載したものであることは、右鑑定書及び供述によつて明らかであるから、所論のごとく確率計算が、その要素をなしているものとはいいがたい。従つてその前段の部分のみを証拠に採つても、必ずしも採証の法則を誤つたものとはいえない。もちろん、磯部鑑定書及び磯部供述の中、確率計算に関する部分を除くと、右三個の弾丸は、同一銃器から発射されたものと認定しても、ほぼ間違いないとの結論を引き出すことは、できないこととなるから、これらの証拠のみによつて、そのような事実を認定することは、採証の法則を誤つたものというべきであるが、原判決は、磯部鑑定書及び磯部供述をそのような事実認定の直接証拠として引用しているのではなく、単に右三個の弾丸の線条こんには、きわめて類似する一致点があるとの間接事実認定のための証拠に供していることは、原判文の解釈上、容易に理解されるところである。してみると原判決には、所論のような採証法則の違反、これにもとずく理由の不備もしくはくいちがいがあるとはいえない。

(二)  つぎに、右磯部鑑定書及び磯部供述は、単なる肉眼的観察と、非科学的な確率計算の方法を基礎とするものであり、その肉眼的観察も、はなはだづさんな方法によつたものであるから、きわめて証拠価値に乏しく、これによつて右三個の弾丸が、同一拳銃から発射されたものであるとの原判決の認定事実ないし前記間接事実を認める証拠とはなしがたいとの主張について判断する。

原判決が、磯部鑑定書及び磯部供述中確率計算に関する部分は、十分信頼するに足る科学的根拠に乏しいものとして、採証に際し、その部分を除外していることは、先に述べたとおりであるが、だからといつて、その余の部分も、非科学的で、証拠価値に乏しいものであると、速断するのは当らない。なるほど、右鑑定書及び供述によると、右三弾丸の肉眼的観察に際し、相互に類似する線条こんのみを選んで観察を下したもので、所論のごとく類似しない線条こんの有無及びその相異性については、深い注意が払われなかつたこと、類似する線条こんの比較対照は、主としてその線条こんの巾と長さにもとずいてなされたもので、その深さの測定、対照はなされなかつたことを認めることができるが、しかし右鑑定書及び供述によると、同鑑定人のとつた鑑定の方法によつても、(一)、(四)及び(五)の前段の鑑定結果を結論づけることが可能であり、またその方法が、必ずしも非科学的で信頼性に乏しいづさんな方法であるとはいいがたいことが認められるから、原判示にかかる前記間接事実を認定するための証拠として、確率計算の部分を除いたこれらの証拠を採用しても、所論のごとく採証の法則を誤つたものとはいえない。

(三)  つぎに原判決が、長崎鑑定書を排斥するにあたり、適法な証拠調べを経ていない同鑑定人の原審裁判長に対する回答書を引用しているのは違法であるのみならず、その排斥の理由は非科学的な独断であつて、自由心証主義の合理的な認定許容範囲を逸脱しているから、結局理由の不備もしくはくいちがいがあるとの主張について判断する。

原判決は、原判示ブローニング型拳銃等所持の事実及び原判示白鳥事件の事実認定の用に供せられている前記証第二〇七号、第二〇八号の二個の弾丸は、高安知彦らが、ブローニング拳銃の発射訓練をした幌見峠の現場から発見されたもので、一は約一年九ヶ月間、他は約二年三ヶ月間、落葉腐しよく土の表面より、一は約一センチ、他は約二センチの個所に埋没していた旨の検察官の主張を是認し、右二個の弾丸は、いずれも空中またはそれと同じ条件のもとに腐しよくしたものであつて、か酷な腐しよく条件のもとに長時間放置されていたものとは推定できない旨の長崎鑑定書を、原判示のような理由(原判決書第二一四頁参照)によつて排斥し、かつ、その理由づけの一根拠として、適法な証拠調べを経ていない所論回答書(記録第一一一五五丁以下参照)を引用していることは、原判文及び記録に徴し明らかである。裁判長の鑑定依頼に対する鑑定人の回答書で、適法な証拠調べを経ていないものを、裁判所が閲覧し、かつ記録中に編綴してあるからといつて、そのことのみにより、該回答書に記載してある事項が裁判所に顕著な事実であるとはいいがたいし、また右回答書に記載されている事項が、当然の事理として承認されるほど裁判所に顕著な事実であるとも認められない。のみならず、長崎鑑定人は、右回答書に記載されている事項を、原判決が理解するような意味合で記載したものでないことは、当審証拠調べの結果に徴しこれを認めるに難くないから、右回答書にもとずき、もしくは同回答書に記載されている事項は、裁判所に顕著な当然の事理として、これを理由に、長崎鑑定書を排斥した原判決の判断は、採証の法則に反し、違法であるといえるし、たとえそれが、罪となるべき事実認定の証拠に供せられるのではないから、厳格な証明を要しないとの説が許されるとしても、はなはだしく妥当を欠くものといわざるをえない。また原判決は、右二弾丸の亜酸化被膜は、空中またはそれと同程度の環境で生じたものと推定されるとの長崎鑑定書の結果を排斥する理由として、右被膜は、アルコールランプの炎の中心等酸素のほとんどない状態のもとにおいてのみ生ずるという弁護人の主張自体と、右鑑定の結果が符合しないことを挙げているが、該判断も、首肯できない。そこで、長崎鑑定書の証拠価値について、さらに検討を加えることとする。長崎鑑定書及び同鑑定人に対する当審受命裁判官の尋問調書を総合すると、同鑑定は、鑑定書記載の経過により(1)証第二〇七号、第二〇八号弾丸のニツケルメツキがはげた素地の銅または銅合金の部分には、亜酸化銅の被膜が生じ、腐しよくしているが、これは空中或は空中と同程度の環境において生じたものと推定される。(2)ニツケルは空中では腐しよくされがたいが、水分に接触していると、いくばくもたたないで酸化被膜が生じ、灰白色にくもるのが普通であるが、右両弾丸のくぼんだ部分には、くもりのない金属光沢を帯びたニツケルメツキが、ほとんど完全な状態で残存している。(3)か酷な腐しよく条件のもとでは、銅及びその合金は、緑色の炭酸銅(緑青)を生じ、炭酸銅は、取り扱い中に脱落することもあるが、脱落した後には腐しよく孔が残るはずである。しかるに右両弾丸には腐しよく孔が発見できない。以上のような理由から、右両弾丸は、か酷な腐しよく作用の存在する環境に長時間置かれていたものとは考えがたいとの結論に達し、右にいうか酷な腐食作用の存在する環境とは、炭酸ガスの存在する個所(たとえば湿つた土じよう中)を意味し、長時間とは、鑑定対象物の外観的観察からは特定することが困難であるが、その置かれた環境が、湿つた土の中で、水分とか適当な温度というようなものにさらされているものとすると、少くとも半年以上置かれたものではないという意味らしく理解されるのである。原審証拠〔四七〕〔四九〕に当審検証の結果を総合すると、右両弾丸の発見された個所は、札幌市郊外にある幌見峠東南斜面通称滝の沢のくまざさ、雑草等の生いしげつた山林中で、発見当時、一は地表上の落葉の腐しよく土中の表面下一センチの個所に、一は同二センチの個所に埋没していたことが認められ、従つて雨水や雪どけ水の浸透する個所であることが認められる。故にもし右のような環境が長崎鑑定書にいうところのか酷な腐しよく条件の存在する個所に該当し、右鑑定の結果が疑いを容れる余地なく信頼するに足るものとすれば、右両弾丸の証拠価値に疑念を生じ、ひいて右弾丸の発見された場所附近で、拳銃の射撃訓練をしたという高安知彦の供述やこれに照応する村手被告人の供述の信用性に影響するところが少くないと思われるのである。ところで、前記長崎供述によると、右両弾丸が、右認定したような個所に遺留されていたとすると、その環境は、鑑定書に記載してあるか酷な腐しよく作用の存在する環境に該当するものであることを認めることができる。しかし他面岡本鑑定書及び岡本剛の当審第三四回公判廷における供述によると(イ)右両弾丸のメツキ層のはく離された部分には、ピツト状の腐しよく孔が認められ、場所によつては地金層の結晶粒界部に比較的浅い選択的腐しよく溝が認められること、(ロ)右両弾丸のメツキ層の部分も、局所的には腐しよくして光沢を失つている部分があり、同一環境下に相当長く放置された場合にも、そのような腐しよく状況を呈する可能性があること。(ハ)金属の腐しよくは、金属の種類、環境条件によつて、その進行の可能性には、いちじるしく差異がある。また同一の金属でも、金属表面状態と腐しよく性環境条件との相互作用によつて、腐しよく反応の進行の速さにも、腐しよく形態にも、敏感に影響を与える。従つて、一定の腐しよく金属と腐しよく環境とが与えられた場合においても、金属の腐しよく形態だけから、その腐しよく環境に放置された期間を推定することは、ほとんど不可能であるというにあることが認められるし、これに長崎鑑定書にいうところの長時間とは、どの程度の時間を意味するか、必ずしも明確でない点があることに思いを致すとき、長崎鑑定書は、相当信頼すべき科学的根拠を具有することは認めつつも、その結果について、疑を容れる余地なく信頼できるものであるとの心証を形成するに至らない。従つて原審証拠〔四〇〕〔四三〕〔四四〕〔四七〕ないし〔四九〕等の証明力をくつがえすに足る証拠価値あるものとしてこれを採用するに由なく、してみると、原判決のこの点に関する判断は、結果的には右と同旨に帰するものと解せられ、従つて、これを排斥した理由中の前記瑕しは、判決に影響を及ぼさないものと認められる。

(四)  つぎに原判決が、宮原鑑定書を排斥した理由も、科学的根拠を欠く独断であつて、結局理由の不備もしくは理由にくいちがいがあるとの主張について判断する。

宮原鑑定書及び宮原将平の当審第三五回公判廷における供述を総合すると、宮原鑑定書は、市販の銅、ニツケル、鉛の角片を、第三者が、本件弾丸の発見場所附近から採取してきたと称する土じよう中に、右角片の半分を押し込み、半分は空中に残し、各角片を電気的に接触し、実験中は当初の湿度を保つため、適量の蒸留水を注いで実験し、なお、右と同様の方法で、銅片のみを電気的に接触した実験を併せ行つたものである。これは、異種金属の電気的接触ということが、金属の腐しよく作用上、重要な意義をもつものであつて、その意味では、弾丸そのものによつて実験する場合と異ならないとの見解にもとずくものであり、また蒸留水を使用したのは、空気中の炭酸ガス等を含む雨水や雪どけ水等より、腐しよくの条件が、か酷でないとの配慮にもとずくものであるというのである。さて、右銅片のみの分については一ヶ月間、異種金属片の分については一〇日間実験した結果、後者の銅片の腐しよく状況は、長崎鑑定書に記載されている本件弾丸の腐しよく状況とほぼ同様であつたことが確認されたとして、本件弾丸は、右実験に供した土じようと同様の条件にある土じよう中に、一ヶ月以上埋没、または一部埋没もしくは地表に放置されていたものとは考えられないとの結論に達したことが窺われるのである。実験室における右の条件のもとに、宮原鑑定書にいうがごとき結果の現われたであろうことは、原判決も疑わない旨判示しておるのである。しかしながら、金属の腐しよく反応の進行速度、腐しよく形態などに関する前記岡本鑑定書及び岡本供述等に鑑みると、原判決が、その判示するような理由によつて、宮原鑑定書を採用しなかつたのは、必ずしも非科学的、非合理的な独断であるといつて非難するのは当らない。してみると原判決に、所論のような採証法則の違反、理由の不備、理由のくいちがいがあるものとは認められない。

(五)  原審証拠〔四〇〕〔四三〕〔四四〕〔四七〕ないし〔四九〕〔六四〕〔六五〕〔六七〕を総合すると、証第二〇七号、第二〇八号の両弾丸は、高安知彦、村手被告人らが、昭和二七年一月上旬前記滝ノ沢の山林中で、拳銃の射撃訓練及び手りゆう弾の爆発実験を行つた際に発射されたもので、発見当時まで、その現場に遺留されていたものであることを認めることができる。長崎、宮原両鑑定書、当審受命裁判官の長崎誠三に対する証人尋問調書、宮原将平の当審公判廷における供述によつても、右認定を左右しえないことは、上述のとおりであるし、記録をよく調べてみても、他に右認定をくつがえすに足りる証拠は発見できない。原判決が、右両弾丸を証拠として採用したのは、正当であつて、所論のごとく採証の法則を誤つたものとは認められない。

第五―第一四≪省略≫

第一五

杉之原弁護人の控訴趣意第二の一〇、青柳弁護人らの同第六、第七点、鎌田弁護人の同第二、第三点、村上被告人の同第一、同被告人の補充控訴趣意第二、第三の(一)の(6)ないし(11)、同(二)の(5)ないし(15)、同(三)の(8)ないし(19)(原判示白鳥事件について理由の不備もしくはくいちがい、事実の誤認または法令適用の誤りがあるとの主張)について。

(甲)  判決に理由の不備もしくはくいちがいがあるとの主張に対する判断。

(一) 一原判決は、白鳥課長殺害の企図の発生とその具体化、同課長の行動に関する調査活動と佐藤博らとの謀議の経過を判示したうえ、「かくして村上被告人、宍戸均は、佐藤博、鶴田倫也と白鳥課長の殺害を順次共謀するに至つた。」旨判示しているが、右共謀の日時、場所、方法、経過等については、ほとんど判示するところがなく、すこぶる不明確であるのみならず、これに関する証拠説明中の説示には、前後くいちがいがあつて、結局刑訴法第三三五条の要求する罪となるべき事実の判示に欠けているとの主張についてまず判断する。

しかし、罪となるべき事実中共謀の日時場所等は、証拠によつてこれが認められる以上、判文中において必ずしも具体的にかつ委曲を尽くして判示する必要はないものと解するのが相当である。ところで原判決は、右村上被告人ら四名間の共謀の事実については、これを認めることのできる直接証拠を欠いているため、その挙示する関係証拠にもとずいて、原判決書第一六七ページ以下に判示する(イ)ないし(ヤ)の間接事実を認定したうえ、これらの間接事実を総合考察して、右四名間の共謀の事実を認めた理由を補足説明しているのである。そこで右両者を対比すると、原判示罪となるべき事実の判示のみでは委曲を尽くさない共謀の日時、場所、方法、経過等も、右補足説明の説示するところにより、相当程度明確に判示されているものと認めることができるのであつて、このような判示の方法も、あながち失当であるとはいえないのである。さて、原判決は、その説示する理由により、村上被告人は昭和二六年一二月二九日以降遅くとも一月四、五日頃までには、白鳥課長を殺害しようと決意し、その頃札幌市内において、宍戸均と白鳥課長殺害の謀議を遂げたか少くとも互にその意思を通じ合つたものと認定判示し、ついで佐藤博は一月五、六日頃調査活動に参加した後遅くとも一月一四日ないし一六日頃白鳥課長を射殺せんとして失敗した頃までには村上被告人及び宍戸均と札幌市内において白鳥課長殺害の謀議を遂げた旨認定判示し、さらに鶴田倫也は一月一六日ないし一八日頃村上被告人によつて全員による調査活動を打ち切る旨の指示があつた日もしくはその頃までには村上被告人及び宍戸均と札幌市内において、白鳥課長殺害の謀議を遂げた旨認定判示したものと解しうることは、原判文に徴し明らかである。なるほど右判示によると、佐藤博や鶴田倫也は、村上被告人や宍戸均とそれぞれ直接謀議を遂げたものか、あるいは宍戸均を介して村上被告人と順次意思の連絡をしたものか必ずしも明確であるとはいいがたく、また謀議の日時、場所が明確に特定され、その方法、経過等について具体的判示がなされているとはいいがたいこと所論のとおりである。また村上被告人が宍戸均と相謀り、佐藤博を白鳥課長殺害の実行行為担当者に選び、同人にブローニング型拳銃を携行せしめた経緯について具体的判示を欠き、その日時についても「その間既に」と判示するにとどまつていることは、これまた所論のとおりである。しかし直接証拠を欠く事案にあつては、間然するところなく明確な事実の認定及びその判示を期待することは困難であつて、右の程度の認定判示をもつて足るものというべく、原判決に所論のような違法があるとの非難は当らない。なお、原判示によると、佐藤博と鶴田倫也との間で直接白鳥課長殺害の謀議がなされたものとは解されないが、共同正犯の成立には数人中のあるものを通じ順次相互に意思の連絡があることを以つて足るものと解せられるから、右両者間に直接謀議がなされた旨の判示がなくとも、村上被告人及び宍戸均を通じ、順次意思の連絡があつた旨認定判示されている以上、これまた所論のような違法があるものとはいえない。

(二) つぎに、原審証拠〔二二九〕及び〔二三〇〕によると、原判示一月四、五日頃の原判示会合で、白鳥課長を殺害することの謀議が成立し、その謀議にもとずいて謀議参加者一同が共同して調査活動を遂行したことが認められるから、高安知彦らも村上被告人及び宍戸均同様殺人の共同正犯としての罪責があるものといわねばならない。しかるに原判決が、村上告被人と宍戸均のみを区別して、殺人の共同正犯である旨認定判示し、他の者は単に殺人幇助犯に過ぎない旨認定判示しているのは、その理由を解するに苦しむのみならず、証拠と事実認定との間にくいちがいがある。もし原判示の趣旨が、村上被告人は右謀議の主謀者であり、宍戸均と相謀り、佐藤博に白鳥課長の殺害方を指示し、同人をして同課長殺害の決意をなさしめた点が、単に調査活動をしたにとどまる他の者と相違するという点で区別するのであれば、村上被告人や宍戸均は、単に殺人教唆の罪責があるに過ぎないし、そのように判示すべきである。しかるに原判決が、この点に意を用いず、漫然村上被告人と宍戸均や鶴田倫也のみに殺人共同正犯としての罪責がある旨認定判示しているのは、理由の不備もしくはくいちがいがあるとの主張について判断する。

しかし原判文に徴すると、原判決は、原審証拠〔二二九〕〔二三〇〕のみならず、その他の関係証拠ことに〔二二八〕の証拠を総合考察し、一月四、五日頃に開かれた原判示会合においては、拳銃による白鳥課長射殺の実行行為に備え、その対策をたてる資料として、まず同課長の行動調査をすることの謀議がなされたものであり、その際村上被告人から、調査活動中でも機会があれば実行する旨の発言はあつたが、まだ殺害の実行行為そのものについては謀議がなされなかつたものと認定し、従つて村上被告人及び宍戸均以外の謀議参加者は、白鳥課長殺害の対策をたてる資料とするものであることの情を知りながら、同課長の行動調査をすることを了承し、かつこれを実行に移したものであつて、後に実行行為の謀議に参加した鶴田倫也を除くその他の者には、右以上の意図があつたものとは認めがたいとして殺人幇助の罪責を認定判示したことを窺知するに難くない。このことは、同人らが、調査活動中佐藤博や鶴田倫也と異なり、拳銃を携行したことがなかつたこと及び一応調査活動の目的を達したと認められる頃その任を解かれ、他の任務に転用されたことが、右〔二二八〕の証拠によつて認められることによつても、裏付けされているといえるのである。これに反し、原判決は、関係の原審証拠にもとずいて、村上被告人及び宍戸均は、佐藤博と謀議のうえ、同人を白鳥課長殺害の実行行為者に選んで拳銃を携行させ、調査活動の結果を参考にして実行の機会をねらわせ、さらに一月一六、七日頃からは全員による調査活動を中止させ、鶴田倫也を佐藤博に協力させ、互に密接な連絡を保ちつつ、四名が相協力して白鳥課長殺害の目的を遂げたものと認定判示していることが判文自体により窺知できる。されば殺人の共謀共同正犯としての判示として欠くるところはなく、佐博藤に白鳥課長の殺害を指示し、同人をして同課長殺害の決意をなさしめたにとどまる教唆の場合とは異なる判示がなされていることを、容易に理解されるのである。原判決には所論のような違法はない。

(三) つぎに原判決は、村上被告人が宍戸均と相謀つて、鶴田倫也ら中自隊員五名を原判示日時北大民科の部屋に集合させ、ついで会合の場所を門脇甫宅に移した旨認定しているが、原判決挙示の証拠によつては、右の事実ことに宍戸均との共謀の事実を認定することができない。原判決は証拠によらないで事実を認定した理由不備の違法があるという主張について判断する。

しかし原審証拠〔九四〕ないし〔九七〕〔二二八〕及び〔二二九〕(ただし、〔九六〕〔九七〕〔二二九〕の中先に第三で説示した所論伝聞の部分を除く。)によると、村上被告人が、宍戸均と相謀り、同人をして農村工作のため千歳町に派遣中の鶴田倫也ら五名に対し、至急帰札するように連絡させ、その指示に従つて同人らが帰札し苗穂駅で解散した際、宍戸均は翌二九日いわゆる坐り込み事件の被逮捕者釈放の対策を協議するため、北大民科の部屋に集合するように指示したこと、集合の具体的場所まで村上被告人が指示したものであると認めうる証拠のないことは所論のとおりであるが、その日特定の場所に鶴田倫也ら五名の者を集合させることは、宍戸均が村上被告人の意を承け、これと意思を通じてなしたものであることを認めることができる。されば原判決の判示に意を尽くさない点はあるが、所論のような違法があるものとは認めがたい。

(乙)  事実誤認または法令適用の誤りがあるとの主張に対する判断。

(一) 昭和二七年一月二一日午後七時四二、三分頃白鳥課長が、自転車に乗つて帰宅の途次、札幌市南六条西一六丁目三輪崎寿太郎方前附近に差しかかつた際、自転車に乗つて、その後を追尾していた男に背後からブローニング型拳銃をもつてそ撃され、背部せき髄骨の左側第一一ろく骨附着部附近に一弾(原判示証第二〇六号)が命中した結果、間もなく同所において、ろく間動脈破さいによる出血多量のため死亡した事実は、原審証拠〔二一一〕ないし〔二二一〕によつて十分認めることができる。なお原判決は、右証拠にもとずいて、犯人は拳銃を連続二発発射し、その一弾が命中したものと認定しているのであるが、この点については疑念をさしはさむ余地がないわけではなく、しかもこのことは後に述べる追平雍嘉の供述の信用性にも影響するところがあると思われるので、序に附言することとする。犯行当時現場附近にあつて、銃声を聞いた人びとの中成田石雄、小野衣子、松沢広信、三輪崎寿太郎の各供述調書によると、同人らはただ一発の銃声のみを聞いた旨述べており、しかも原審証拠〔二一四〕ないし〔二二一〕によると、犯行現場附近は、犯行直後丹念に検証、捜索が行われたが、その附近の路上で撃ちがら薬きよう一個(原判示証第一八七号)を発見することができたのみで、他は発見できなかつたこと、命中弾は白鳥課長の背後一メートルないし三メートルの至近距離から発射されたものと推定され、従つて命中率は高いものと思われるが、白鳥課長の負傷個所は一個所のみであることを認めることができる。このような事実を考え合わせると、犯人が果して連続二発発射したものかどうか疑念がないわけではないが、他面現場附近にあつて銃声を聞いた坂本勝広、高橋アキノ、佐藤二三江、滝山健三、成田裕子、松沢守、芦立武、三輪崎久美子、三輪崎サダの各供述調書によると、同人らは、いずれも連続二発の銃声を聞いた旨述べているので、これらの証拠にもとずいて、原判決の認定するとおり、犯人は連続二発発射したものと認めるのが相当である。

さて、原判決は、その挙示する証拠にもとずいて、右犯行は佐藤博が、村上被告人、宍戸均、鶴田倫也と共謀のうえ実行したものであり、村手被告人は、その幇助をしたものであると認定したのであるが、各所論は強くこれを否定し、両被告人とも右犯行には全然関係がないとして、原判決の事実誤認を主張するのである。そこで所論ならびに答弁に鑑み、これを検討するに、原判決は、関係の原審証拠にもとずいて次に列記する各間接事実を認定した上、これらの間接事実認定の資料に供した原審証拠を総合考察して、原判示第二の(七)の罪となるべき事実を認定しているから、まずこれらの間接事実について逐一その誤認の有無を検討し、これら間接事実の認定に供せられた証拠にもとずいて原判示第二の(七)の罪となるべき事実を誤りなく認定することができるか否かの点に斧えつを加えることとする。

(1) 原判決は、主として原審証拠〔二二二〕ないし〔二二七〕にもとずいて、当時白鳥課長は共産党員から弾圧者として敵視されていたとの事実を認定している。

所論は、共産主義の教義にもとずいて、個人に対するテロ行為を意図するはずのない村上被告人にとつて、右のような客観情勢が認められるからといつて、本件犯行の企図と関連させて、その意中を推察する証拠とされるのは不当であると考えるというだけで、右の事実そのものについては争うところなく、原判決挙示の右証拠によつて、これを十分認めることができる。なお、原判示第二の(四)の(1)記載のとおり、昭和二六年一二月二七日自由労働組合の札幌市長高田富与に対する集団交渉をめぐつて、同市役所坐り込み事件が発生し、札幌委員会所属党員ら約一〇名が、白鳥課長の指揮する警察官によつて検挙され、札幌地方検察庁に送致後は、同庁検事塩谷千冬の取り調べを受けることになつたとの事実は、先に第一二において説示したとおり、原審証拠〔九九〕ないし〔一一〇〕によつて、これを認めることができる。

(2) 原判決は、原審証拠〔二二四〕によつて『村上被告人は、昭和二六年一一月下旬頃札幌市南一三条西一五丁目電産社宅の上村(または植村)方における幹部教育の席上「白鳥はもう殺してもいいやつだな」と述べた』との事実を認定している。

所論は、右事実を否定し、右〔二二四〕の証拠に記載されている志水尚史の供述は、同人のいわゆる幹部教育の開催場所が実在しないこと、同人は幹部教育など受ける資格を有するものでないこと、講習会に使用したというテキストはその頃まだ札幌地区には配布されていなかつたこと、同人の27・3・26第一回吉良検察官調書の供述記載との間にくいちがいがあることなどを理由にして、右志水尚史の供述は信用できないというのである。原審第四六回、当審第三二回公判廷における同人の供述と対比すると、右〔二二四〕に記載されている同人の供述との間に、かなり相違する点が見受けられ、ことに白鳥課長に関する発言者の点で動揺しているが、右公判廷における各供述によつても、昭和二六年一一月頃原判示植村(または上村)方と推定される場所で、講習会が開催され、村上被告人に似た人が講師として指導したこと及び同講習会に志水尚史が出席し、その最終日の座談の中で、白鳥課長に関する発言のあつたことを認めることができる。これに佐藤直道の28・2・18第七回高木検察官調書中「札幌委員会で五全協の政治教育を四回、一一月の末(昭和二六年)から一二月の初めにかけて実施し、第二回目を自分が担当して三日間やつた」旨の供述記載と対比すると、右〔二二四〕の証拠に記載されている志水尚史の供述は、一部明確を欠く点はあるが、大体において真実に副うものとして措信できる。右講習会の開催されたのは、原判示坐り込み事件の被逮捕者を出す以前のことであり、その頃から村上被告人が、白鳥課長を殺害することを、真剣に考慮していたものとは認められないが、右〔二二四〕の証拠によつて、同被告人の白鳥課長に対する悪感情が露呈されたとの間接事実を認めることはできるのである。原判決もそのような意味合いで、右証拠を採用したことが、判文自体から推断される。

(3) 原判決は、主として原審証拠〔三七〕〔二三六〕にもとずいて、『佐藤直道は、昭和二六年一二月二〇日頃から二五日頃までの間に、ブローニング拳銃を携行している宍戸均に出会い、同人が「年末警戒で警察官も出ているし、何かいつたら一発ぶつ放してやるんだ。」「度胸だめしだ。」等といつていたので、その二、三日後村上被告人に会つた際、その話しをしたら、同被告人は「全党に模範を示すんだろう、警察官の一人や二人やつたつて浮かないさ」といい、また「共産党を名乗つてどうどうと白鳥を襲撃しようか」などといつたので、佐藤直道はこれに反対したうえ「仮りにどうしてもやらなければならぬ状態になつたとしても、すきをねらつて少数者でやるべきだ。」などと意見を述べた』との事実を認定している。

所論は、右の事実を否定し、宍戸均はその頃農村工作隊に参加し、千歳町に行つていたから、札幌市に現われるはずがないこと、当時のきびしい弾圧の情勢下にあつて、定期的な会合以外に、村上被告人自身が佐藤直道のアジトを訪問するということはありえないし、ましてや特別の用件もなく雑談するためにそのような軽卒な行動をとることはありえないこと、所論引用の各証拠によつて明らかなとおり、村上被告人も、佐藤直道も連日多忙なスケジュールが組まれていて、両人が夜間出会つて雑談する余裕などはなかつたこと、その他所論でいろいろ述べている理由によつて、右〔三七〕〔二三六〕に記載されている佐藤直道の供述は信用できないというのである。

さて右事実に関する佐藤直道の荒谷検察官に対する27・10・24第二三回、27・11・9第三一回、27・11・17第三五回各供述調書、高木検察官に対する28・2・1第九回、28・2・20第一一回各供述調書に記載されている供述と、右〔三七〕〔二三六〕の原審公判廷における各供述、当審第二一回公判廷における供述を対比すると、その間に若干のくいちがいのあることは認められるが、事実の本筋に関する供述には、はなはだしい変転の跡があるものとは認められない。なるほど所論引用の証拠(高安知彦の原審第三八回、第四二回公判廷における各供述、同人の28・8・7第一二回高木検察官調書、藤井哲夫の原審第六三回公判廷における供述、杉木甚一の原審第六六回公判廷における供述)によると、宍戸均は、同年一二月二〇日高安知彦らの農村工作隊とともに、千歳町におもむき、同月二八日頃まで千歳町にあつて工作隊の指導と、工作隊各班間の連絡及び札幌委員会との連絡の任に当つていたことが認められるが、高安知彦の28・8・7第一二回高木検察官調書、村手被告人の28・10・1・第一八回久保検察官調書によると、宍戸均はその間終始工作隊と行動を共にしていたわけでなく、その間札幌委員会との連絡をとるため、ときどき帰札していたことが認められるから、右期間中宍戸均が札幌市に現われるはずがないとの所論には賛同できない。また所論長尾英子の27・12・17第一回金沢検察官調書も、その頃村上被告人が佐藤直道のアジトを訪れた事実はないとの所論を首肯するに足る証拠とはしがたい。なお同被告人が一月二日佐藤直道のアジトを訪れ雑談したことは、後に認定するとおり疑いのない事実であると認められるから、当時の情勢からいつて、村上被告人がそのような軽卒な行動をとるはずがないとの所論もたやすく首肯できない。してみると右〔三七〕〔二三六〕の証拠を採用するについて妨げとなる事情はないものというべく、それらの証拠によると、冒頭掲記の間接事実を認めるに難くない。記録中右認定と抵触する証拠は右〔三七〕〔二三六〕の証拠と対比して採用しがたい。その他同証拠に証拠価値がない旨のるるの所論は、独自の証拠価値判断にもとずく所見と解せられるのであつて、これと心証を異にする当裁判所の首肯しがたいところである。いうまでもなく右間接事実が認められないからといつて、村上被告人が言葉どをり共産党を名乗つて、どうどう白鳥課長を襲撃することを真剣に考慮していたとは認めがたいのであつて、その言葉自体多分に冗談気味が感じられるのであるが、右間接事実によつて、同被告人の白鳥課長を始めとする一般警察官に対する感情と、宍戸均の性格の一面及び五全協の軍事方針が、同被告人や宍戸均に及ぼした影響を看取するに難くないのである。

されば右〔三七〕〔二三六〕の証拠は、村上被告人や宍戸均が当時既に白鳥課長を殺害する意図を固めていたと推認する証拠となしがたいこともちろんであるが、右の意味合いにおいて、これを証拠に採用するのは差しつかえない。

(4) 原判決は、原審証拠〔二二五〕にもとずいて「村上被告人は、昭和二七年一月二日頃、佐藤直道のアジトである宋基星方において、佐藤直道の消極意見に対し、当時札幌に起きていたいわゆる投石事件等は起るべくして起つた当然の事件だから、軍事方針に反するものではないという趣旨のことを述べ、また同月四日頃佐藤直道の自宅における会議において、同様の見解を述べた」との事実を認定している。

所論は、村上被告人が、正月のこととて一月二日佐藤直道のアジトを訪れ雑談したこと及び同月四日午前一〇時頃から開かれた佐藤直道宅の会議に出席したことは事実相違ないが、それらの機会に、判示のような見解を述べた事実はまつたくない。この点に関する佐藤直道の従来の供述には前後くいちがいが多いのみならず、虚偽と矛盾に満ちている。例えば同人の28・2・20第一四回高木検察官調書によると、「一月一日の朝家で新聞を見たら、高田市長の投石事件のことが大きく出ていて、それを見たとき党の軍事委員会がやつているなと直感した。」旨述べているが、一月一日の新聞には投石事件の記事は登載されていない。また27・11・19第三一回荒谷検察官調書によると、一月二日佐藤直道のアジトにおける談話中、同人は権力機関に対する脅迫等が起つていて、これらはすべて軍事委員会の指導のもとに中自隊がやつていると思つた旨述べているが、いわゆる脅迫はがきは、年賀状として出されたのであるから、一月一日以前に配達されるはずがなく、従つてその以前に該事件の記事が新聞に登載されるはずがないから、同人が何故その事実を知つたか不思議である。これらありうべからざる事実を根拠として述べた同人の供述は、まつたく信用できないというのである。所論引用の証拠(佐藤直道の荒谷検察官に対する27・11・9第三一回、27・11・21第三七回各供述調書、28・2・20第一四回高木検察官調書)と、右原審証拠〔二二五〕を対比すると各供述の間にくいちがいのある個所もあるが、事実の本筋に関する供述には変転の跡があるとは認められないのであつて、同人の当審第二〇回公判廷における供述及び追平雍嘉の29・2・23第六回高木検察官調書と対比し、右〔二二五〕の証拠は、措信に足るものと認められる。いわゆる脅迫はがき事件や高田市長宅に対する投石事件の記事が、昭和二七年一月一日以前の新聞に登載されていたかどうかは、証拠によつて明らかにすることができないが、領置にかかる証第二九号ないし証第四一号のはがきの中には、その消印によつて昭和二六年一二月中に配達されたものと認められるものが、少からずあることが認められるから、これらのはがきが一月一日以前に配達されるはずがないとの前提にたつ所論は首肯しがたいし、仮に高田市長宅への投石事件の記事が一月一日の新聞に登載されていないとしても、その後の新聞によつて知る機会がないとは断定できないのであつて、佐藤直道の右供述が、一月四日の会議の席上でなされたものである点に思いを致すと、ありうべからざる事実を根拠とする虚偽の供述であると断定することはできない。その他右〔二二五〕の証拠に証明力がない旨のるるの所論は、独自の証拠価値判断にもとずく所見であると認められるから、これと心証を異にする当裁判所の首肯しがたいところである。同証拠によれば、冒頭掲記の間接事実を十分認めることができる。

(5) 原判決は、原審証拠〔二二六〕にもとずいて、『村上被告人は、前記のごとく昭和二七年一月二日頃佐藤直道のアジトである宋基星方で、佐藤直道らとの対談中「政治的な意味で人を殺すことは非常にむずかしいことだ。」と語つた』との事実を認定している。

所論は、右事実を否定し、右〔二二六〕の有岡襄の供述は、所論の理由により信用できないというのである。

右〔二二六〕の証拠によると、右有岡襄の供述は、どういう話をしていたかちよつと考えごとなんかしていて、はつきり覚えていないが、不意に私の耳に村上委員長が、「政治的な意味で人を殺すということは、非常にむずかしいことだ。」というようなことをしやべつたのが耳に入つた。それがどういう話のきつかけで、どういう意味でいつたのかは、私は全然覚えていないというあいまいな供述であるのみならず、所論引用の証拠(佐藤直道の27・11・9第三一回荒谷検察官調書、長尾英子の27・12・17第一回金沢検察官調書等)によると、当日果して有岡襄が佐藤直道のアジトへ行つたかどうか疑問の点もあるから、佐藤直道の当審第二〇回公判廷における供述中、右事実に副うかのごとき供述があるとはいえ、右〔二二六〕の証拠によつては、前記間接事実を認めがたいものというべく、従つて該証拠をとつてもつて、村上被告人が白鳥課長を殺害する犯意を有していたものと認定する一資料とするのは適切でない。

(6) 原判決は、原審証拠〔二二六〕にもとずいて、『宍戸均は一月三日夜有岡襄に対し「白鳥課長を殺害することは、大衆から浮き上らないのに、佐藤直道は浮き上るといつている。同人は日より見を起こしている。」旨語つた』との事実を認定している。

右事実に関する〔二二六〕の証拠は、佐藤直道の当審第二〇回公判廷における供述及び有岡襄の当審第二六回公判廷における供述と対比し、措信できるのであつて、同証拠によると、右間接事実を十分認めることができる。しこうして右間接事実によつて、宍戸均が一月三日頃には白鳥課長殺害について、急進的な考えを強く打ち出してきたことを推認することができる。

(7) 原判決は、原審証拠〔二二八〕ないし〔二三〇〕〔九四〕ないし〔九七〕にもとずいて「村上被告人は、昭和二六年一二月二九日高安知彦ら中自隊員に対し、いわゆる坐り込み事件を契機とする高田市長宅、塩谷検事宅への投石等の闘争を指示した際、白鳥課長は警察官でもあるし、年が明けてから慎重に計画し、徹底的にやる旨述べたこと及び高安知彦、村手被告人らは、その言を聞いてあるいは白鳥課長を殺害することになるかも知れないと考えた。なおその際宍戸均も同席していた」との事実を認定している。

所論は、右事実に関し、村上被告人は、いわゆる坐り込み事件の被逮捕者の早期釈放をはかるため関係諸機関に対する抗議運動を起こすことを指示したように提案したことはあるが、塩谷検事や高田市長宅への投石や脅迫はがきを出すことのないのはもちろん白鳥課長への攻撃に関し原判示のような発言をして暗に同課長を殺害する旨の意図をうち明けた事実は絶対にない。右事実に関する〔二二八〕〔二二九〕の証拠はまつたく事実無根のことが述べられ、もしくは記載されているのであつて信用できないというのである。

高安知彦、村手被告人らの農村工作隊が、千歳町から帰札した日の翌二九日、同人らは北大民科の部屋に集合して、高田市長、塩谷検事宅への投石やビラはりなどいわゆる反フアツシヨ闘争を盛り上げることを協議したうえ、引きつづき場所を原判示門脇甫方に移して、その具体策などを協議した結果、同夜高安知彦らによつて、塩谷検事宅への投石、ビラはりが実行されたことは、先に第一、二において認定説示したとおりである。さてそこで右協議に村上被告人や宍戸均が参加し、村上被告人が、白鳥課長に対する攻撃について原判示のような発言をし、暗に同課長殺害の意図をうち明けた事実があるかどうかについて、さらに考察を加えることとする。

原審証拠〔九六〕〔九七〕〔二二九〕に記載されている村手被告人の供述中、先に述べた伝聞供述に関する部分を除くと、これらの証拠はもはや村上被告人が右のような意図をうち明けたとの事実についての採証の用に供しえないものといわねばならない。そこで右事実に関する証拠としては〔二二八〕〔九四〕に記載されている高安知彦の供述のみとなり、前記間接事実が認められるかどうかは、高安知彦の右供述の信用性如何にかかつてくるわけである。所論引用にかかる高安知彦の高木検察官に対する28・8・10第一三回、28・8・10第一六回、28・11・6第四三回、29・1・13第六二回、29・1・14第六五回各供述調書と〔二二八〕〔九四〕の証拠を対比すると、右謀議のなされた会合の日時、場所、ビラを作成した場所、その作成者らについて若干のくいちがいが認められるが、事実の本筋に関する供述については、いちじるしい変転の跡があるものとは認められない。また高安知彦の高木検察官に対する28・8・10第一六回、28・8・13第三〇回各供述調書中検察官が、高安知彦の供述について、その真偽を確めるかのごとき記載の存することは所論のとおりであるが、この故をもつて同人の供述はすべて信用できないと断言することはできない。その他右〔二二八〕〔九四〕の証拠は、信用性がない旨の所論は独自の心証にもとずくものと認められるのであつて採るをえない。しこうして該証拠によると前記間接事実を十分認めることができるものというべく、この事実に徴すると、村上被告人が、当時既に白鳥課長を殺害する不動の決意を有していたものとは認めがたいが、いわゆる坐り込み事件で被逮捕者を出したことが動機となり、年明け早そう、慎重な計画をたて、白鳥課長を殺害しようとの決意を秘めていたものと認めるのが相当である。

(8) 原判決は、主として原審証拠〔二二八〕〔二三〇〕にもとずいて、「村上被告人は昭和二七年一月四、五日頃前記門脇甫方もしくは同市南四条西一六丁目寺田トシ方の村手被告人の部屋における協議における協議に際し、高安知彦ら中自隊員五名に対し、白鳥課長に対する攻撃は拳銃をもつてやる旨を告げ、そのため直ちにその動静を調査するよう指示し、なお右の調査中においても、機会があれば決行する旨を述べ、高安知彦らはこれを了承したが、その協議の席には宍戸均も村上被告人とともに同席した。協議の結果、宍戸均は隊長格として調査活動全般の指揮及び村上被告人に対する報告、連絡の事務を担当し、他の者を二班に分け、一班は主として札幌市北一条西五丁目所在の札幌市警察本部附近を、他の一班は主として同市南九条西二三丁目の白鳥課長宅附近を受け持つこととなり、同夜直ちに調査活動に入つた」との事実を認定している。

所論は、右事実を強く否定し、村上被告人は一月四日は午前一〇時頃から夕刻まで、札幌市南四条西二五丁目の佐藤直道方での会合に出席し、会議中外出したことはなく、また一月五日は、早朝から手稲町の武藤清方における地方委員会主催の会議に出席し、これまた夕刻まで会議に参加していたから、原判示高安らとの会合に出席し、白鳥課長殺害のための動静調査を指示するということは、まつたく不可能なことである。村上被告人については、右両日とも完全なアリバイが成立する。この点に関する佐藤直道の供述は明らかに虚偽、か空のものであり、村手被告人の供述は精神異状のためと、検察官の誘導によつて事実に反する供述をしたのであるというにある。

白鳥課長の動静調査に関する右謀議は、もし所論のアリバイが成立し、高安知彦や村手被告人の供述が真実に反するものであることが立証されたとすると、高安知彦の供述全般の信用性にも、少なからざる影響を及ぼすものと考えられ、かつ本件における主要な争点の一つとして、村上被告人の罪責判断上重要な意味をもつものと解せられるのである。されば原判決も、この点について特に、論及しているので(原判決書第一七三頁以下)、いささか冗漫にわたるきらいはあるが、右両日及びその前後にわたり、村上被告人のアリバイが成立するかどうかを詳細考察することとしたい。

(イ) 白鳥課長動静調査の謀議が行われた会合の場所、開始時刻、謀議に要した時間。

右謀議の行われた場所について、村手被告人は、同人の止宿先である札幌市南四条西一六丁目の前記寺田トシ方であるといい(原審証拠〔二三〇〕)、高安知彦は、同市南九九条西一三丁目の前記門脇甫方であるといつたり、(28・8・15第二回高木検察官調書、当審第八回公判調書)あるいは門脇方か寺田トシ方のいずれかであつたと思うが判然しない(原審第三八回、第四二回公判廷の供述)といつている。原判決はいずれとも断定しかね、門脇甫方もしくは寺田トシ方のいずれかであると認定しているのである。

開始時刻については、高安知彦は午前一〇時前後であるといい(原審第四二回公判廷における供述)なお、いわゆる対警宣言文を発送した日に集つた時刻については、午前九時か一〇時頃(28・8・51第二回高木検察官調書)であるといつたり、一〇時頃と思うがその頃集つたこともあるから判然とした時刻は判らない(29・1・28第五回高木検察官調書)といつているのであるが、対警宣言文を発送した日が一月四日であることは、領置にかかる対警宣言文封入の封筒の日附印、木全康生、池田五七郎の各検察官調書によつて確認できるのである。謀議に要した時間は、高安知彦はあるいは二時間前後(原審第四二回公判廷における供述)といい、あるいは二、三時間(当審第八回公判調書)であつたといい、村手被告人は午前中一時間か一時間半で終つた。この会議では今後の活動の方針、苗穂工機部の工作とか自労の工作とかそんなものを中心にしたことがきめられ、白鳥課長の話は特に中心的な話題ではなかつたが出て、一二月二九日にきまつた方針が確認された旨述べている。(原審証拠〔二三〇〕)なお、高安知彦は、右会合の際、村上被告人が、広島村で行われている反共映画撮影の妨害をしなければならない旨話し、鶴田倫也と大林昇が、宍戸均とその具体策を協議し、その後間もなく右両名がロケーシヨン小屋に放火した旨述べており(28・8・18第一二回高木検察官調書)右ロケーシヨン小屋に放火のあつた日が一月六日であることは、27・1・7司法警察員鈴木勝弥作成の実況見分調書、田口桜村、佐々木政男の司法警察員に対する各供述調書によつて明らかである。もつとも高安知彦は、当審第八回公判廷で、右放火の協議をした際、宍戸均がいたことは間違いないが、村上被告人がいたかどうか現在では記憶ない旨及び放火の協議をした日と、白鳥課長の動静調査の協議をした日は別かもしれない旨述べている。(当審第八回公判調書中の高安知彦の供述記載)いずれにしても、右会合に要した時間は二時間前後ではなかつたかと推定されるのであるが、白鳥課長の動静調査の協議のみでなく、他の事項も合わせて協議されたことが窺われるのであつて、また白鳥課長の行動調査に関する協議といつても、二時間前後の時間を要するようなこみ入つた協議はなされなかつたことが窺えるのである。このことは原審証拠〔二二八〕の高安知彦の供述として、行動調査の方法としては、白鳥課長の出勤退庁の時間、その際の乗物、同伴者の有無、経路、それに暗殺するのに適した場所等を調査すること、僕と門脇と村手が大体一つのグループになつて白鳥課長の自宅附近で行動すること、大林と鶴田の二人は主に札幌市警本部附近で調査することという風にきまつた。これは誰かから指示されたという強い意味のものではなく「どうだお前そつちのグループでやれ。」「よしおれがやる。」というような仕方できまつたと思う。ただその話の中心になつたのが宍戸だつたと思う。村上被告人も組合せとか場所をどういう風にするということを話していると思うが、はつきり思い出せない旨述べていることによつても窺いえられるところである。ところで問題の開始時刻については、前記証拠によると、午前一〇時前後と認定するのが相当のように思われるが、しかし原判決も説示するとおり、午前九時頃から開始されたものではないと断定できるだけの証拠もないといえるのである。

(ロ) 一月四日のアリバイは成立するか。

佐藤直道の荒谷検察官に対する27・11・21第三七回、28・2・6第六八回、28・3・22第四二回、29・1・27第六一回各供述調書、高木検察官に対する28・2・20第一四回、29・3・3第六三回各供述調書、原審第四〇回、第四二回、当審第二二回各公判廷における供述、追平雍嘉の原審第三七回公判廷における供述、当審第六回公判調書中の供述記載、29・2・23第六回高木検察官調書、長岡元春の当審第三一回公判廷における供述を総合すると一月四日午前一〇時頃から夕刻まで、前記佐藤直道方で札幌委員会常任らの「組織と戦術」というプリントをテキストとする研究会が開かれ、村上被告人及び宍戸均も同研究会に始終出席していたことを認めることができる。もつとも午前一〇時頃といつても、それが正確な時刻であることの根拠はなく記憶にもとずくものであるから、前後一〇分位の幅は含まれるものと解するのが相当である。右事実に関する佐藤直道の供述は、その内容に照らし、かつ、追平、長岡らの供述に照らし、高度の信用性があるものと認められるのであるが、右研究会開催の日が一月四日以外の日ではないかと疑わせるような反証が一、二なくもないから、序に附言する。佐藤直道の前記27・11・21第三七回荒谷検察官調書によると、右研究会は、昭和二七年の一月初め頃たしか一〇日以前であつた旨やや明確を欠く供述をしており、追平雍嘉の29・2・23第六回高木検察官調書によると、右研究会の開かれたのは白鳥事件後であつたかもしれない旨述べていることを認めることができる。また同人の原審第三七回公判廷における供述によると、池田利蔵が白鳥課長宅ヘビラをまいて逮捕されかけたことがあるが、それは同日佐藤直道方で円山細胞の新年宴会をした日と同じ日であつたように思う旨述べており、高津和夫の原審第五回公判廷における供述によると一月二日ないし五日の間に佐藤直道方で円山細胞の新年宴会が開かれている旨述べていることが認められる。そうして池田利蔵が白鳥課長宅へビラをまいて逮捕されかけた日が一月四日であることは、石川千代美の検察官調書によつて明らかである。従つて、「組織と戦術」の研究会のあつた日は一月四日以外の日ではないかとの一応の疑念も浮かぶわけであるが、佐藤直道の28・2・20第一四回高木検察官調書、29・3・3第六三回同検察官調書、高津和夫の当審第一六回公判廷における供述、同人の28・5・9岩渕警察官調書を総合すると、右円山細胞の新年宴会は一月三日佐藤宅で開かれたものと認めるのが相当である。

さて、前記門脇甫方は札幌市南九条西一三丁目、寺田トシ方は同市南四条西一六丁目、佐藤直道宅は同市四条西二五丁目であることは先に認定したとおりであるから、その距離は門脇方から約一七丁、寺田方から約九丁であることは、札幌市居住者にとつて一般公知の事実であるといえる。そこで一丁を一分半位の普通速度で歩行したとしても門脇方からは約二五、六分、寺田方からは約一四、五分で到着できることは経験則上明らかであるといえる。以上の事実関係を総合して、佐藤直道方の研究会が午前一〇時ないし一〇時一〇分頃開催され、村上被告人や宍戸均がその直前に到着し、(この点に関する長岡元春の当審第三一回公判廷における供述は不自然で措信できない。)しかも、門脇方または寺田方の会合が午前九時頃から開かれたものと想定すると、村上被告人や宍戸均が、まず高安知彦らとの会合に出席し、原判示白鳥課長の動静調査の指示をすませた後、高安知彦らとの会合を中座して佐藤方の研究会に出席することは、時間的に必ずしも不可能であるとはいえない。この点に関する前記のすべての関係証拠を総合すると、このような想定をたてることは、卒直にいつて、都合のよい素材のみを選んで組みたてた想定であるとの非難を受けねばならないかと思われるが、経験則上まつたく許されない想定であると断定することはできないのである。

高安知彦らが、いわゆる対警宣言文を発送した日が一月四日であることの動かしがたい物的証拠のあることは、先に述べたとおりであるが、原審証拠〔一六四〕ないし〔二一〇〕によると、右宣言文と同時に、「警官の友」というビラを同封して郵送したことがきわめて明らかである。該「警官の友」は昭和二六年一〇月一五日附の発行になつていて、その記事の内容からいつても、また宣言文のビラは青インクで刷られているのに反し、「警官の友」は黒インクで刷られている点からいつても、別の機会に作成されたものと認めるのが相当である。右「警官の友」を同封した経緯について、高安知彦は、そのビラは宣言文を発送した日に、宍戸均が持つてきた旨供述しているのである。(29・1・28第五回高木検察官調書、一審第二〇回公判廷の供述―もつとも28・8・15第二回高木検察官調書では、鶴田か花井(宍戸のこと)が持つてきたように思う旨述べている。)高安知彦の右供述は相当信用できるものと認められるのであつて、そうだとすると、宍戸均は、一月四日佐藤直道方の研究会に出席する前に、右「警官の友」を持参して高安らとの会合に出席したものと認められるのであつて、この事実から推定しても、村上被告人が、高安らの会合に出席することが、時間的にまつたく不可能であつたとは断定できないのである。

(ハ) 一月五日のアリバイは成立するか。

白鳥課長の動静調査等に関する謀議の行われた日について、高安知彦は、検察官の取り調べに対し、ほとんど一貫して一月三、四日頃であると述べていたが、原審第四二回公判廷で、あるいは五日であつたかも知れないと述べたたとは、同人の前記各検察官調書及び原審第四二回公判廷における供述によつて明らかであり、村手被告人は、一月四、五、六日頃であると述べていることは、原審証拠〔二三〇〕により明らかである。しかも高安知彦の検察官調書について、日時を追つてし細に検討すると、村上被告人の所論が指摘するとおり、高安知彦の当初の記憶としては、対警宣言文発送の日と右謀議の行われた日とは別の日であつて、どちらかといえば対警宣言文を発送した日の方が早く、それは一月三日であり、動静調査の謀議の日はそれに近接した日であつたと記憶していたことが認められるのである。このことは当審第八回公判調書に記載されている同人の供述からも窺える。ところが昭和二八年一二月一九日の取り調べに際し、検察官から対警宣言文発送の日は一月四日であることの動かしがたい物的証拠を示されて、記憶を整理した結果、それまで三日の出来事と記憶していたのは四日、四日の出来事として記憶していたのは五日の記憶違いであることが判明するに至つた事情が、28・12・19第五九回高木検察官調書によつて推察できるのである。してみると、対警宣言文を発送した日は三日であると述べたのは四日の記憶違いであつて、高安知彦の当初の記憶に従えば、むしろ四日に近接した日すなわち五日頃であつたと理解するのが、同人の記憶に即するともいえるのである。そこで一月五日における村上被告人のアリバイについても検討する必要が生ずる。

大橋次郎、当麻憲三の原審第八一回、当審第三〇回公判廷における各供述、阿部勘吾の当審三〇回公判廷における供述、村上被告人の原審第八八回、当審第三三回公判廷における各供述を総合すると、一月五日手稲町の後藤清方で地方委員会主催にかかる道内各地区の責任者級の会議が開かれ、村上被告人は午前八時頃札幌駅前発のバスで手稲町におもむき、右会議に参加したこと、右会議の開始時刻は午前一〇時の予定であつたが、遅参者があつたりして実際に始つたのは午前一〇時半ないし一一時頃であつたことを一応認めることができる。もつとも右会議の開催日が一月五日であつたかどうか疑念がないわけではない。右会議が秘密に開かれたことは、前記各証拠により明らかであり、従つて関係者以外のものには、その開催日を確認することが困難であるが、しかも右各供述には、その裏付けとなる証拠は記録上見当らない。また右各供述を対比すると微妙なくいちがいがある。たとえば、会場へ行くために渡された地図等を村上被告人が受領した日時については、村上被告人の原審公判廷における供述と、阿部勘吾の右供述との間に相違がある。しかし、ともあれ右会議の開催日が一月五日であることは、原判決も一応これを認めているのであつて、特段の反証がないかぎり、疑念を残しつつも右会議の開催日は一月五日であつたと認めるのが相当である。原判決は、村上被告人が同日午前八時頃札幌駅前発のバスに乗つたとの供述は措信しがたいとし、午前一〇時半か一一時頃に開催されたものとすると、同被告人は、高安らとの会合に出て原判示の指示をしたうえ、手稲町の会場におもむくことは可能である旨判示しているが、村上被告人が当時主宰していた札幌委員会の会合であれば格別、その上級機関である地方委員会が主催する重大な会議で、しかも手稲町で開催される会議へ出席するのに、被告人が遅参のおそれある時間ぎりぎりに到着するという想定は不自然であつて、むしろ村上被告人の供述の方が真実に副うものと推定されるのである。しからば、右会議の開催日が、一月五日以外の日であることを確認できる反証のない限り、一月五日における村上被告人のアリバイは、所論のとおり成立するものと認定するのが相当である。

(ニ) 一月三日または六日のアリバイは成立するか。

村手被告人は、白鳥課長射殺の謀議が行われた日は、一月六日かも知れないという趣旨の供述をしているから、念のためその日に開かれた可能性があるかどうかを検討してみるに、鶴田倫也、大林昇は、一月六日ロケーシヨン小屋に放火するため広島村におもむいたことが認められることは先に述べたとおりであるところ、右〔二二八〕の証拠によると、調査活動の開始されたのは、それより一、二日前の一月四、五日頃であることが窺えるから、村上被告人のアリバイを検討するまでもなく、動静調査の謀議が行われた日が一月六日でないことは明らかである。

つぎに一月三日の村上被告人のアリバイについて検討するに、原判決説示のとおり、原審証拠〔二二五〕、佐藤直道の原審第四六回公判廷における供述、28・2・20第一四回高木検察官調書、29・11・9第三一回荒谷検察官調書、原審証拠〔二二六〕、旗手信夫の原審第四三回公判廷における供述、村上被告人の原審第八七回公判廷における供述を総合すると、村上被告人は、一月二日午後から三日夜にかけ、佐藤直道と行動を共にし、高安知彦らと全然別行動をとつていた事実が認められるから、高安知彦らと会合した日が一月三日でないことは、まことに明らかである。

以上説示したところにより、原判示白鳥課長の動静調査等の謀議が行われた日は、一月四日であつたと認めるのを相当とする。一月四日と認定するについては多少の疑念は存するが、前記のとおり時間的にまつたく不可能であるとはいいがたく、しかもこれを裏付ける前記「警官の友」が同日発送されている事実、原判示調査活動が一月四、五日頃から開始された事実、また先に認定したとおり、昭和二六年末に起つた原判示第二の(三)ないし(六)の一連のいわゆる反フアツシヨ闘争には、すべて村上被告及び宍戸均の関与している事実等を考え合わせると、高安知彦や村手被告人が、白鳥課長の動静調査等の謀議の事実について、まつたく事実無根の供述をしたものであるとの心証は、所論を十分考慮検討しても、遂にこれを形成することができないのである。しこうして右〔二二八〕〔二三〇〕の証拠によると、本項(8)の冒頭に掲げた原判示事実を認めるに難くない。右認定に反する村上被告人の原審ならびに当審公判廷における供述は、右証拠と対比し措信できない。

(9) 原判決は、主として原審証拠〔二二八〕〔二三一〕ないし〔二三三〕にもとずいて「高安知彦らは、一月四、五日頃から、白鳥課長の動静調査を開始し、その一両日後佐藤博が鶴田倫也、大林昇らの班に属して調査活動に加わり、相協力してほとんど連日白鳥課長の見張りまたは尾行等により、同人の出勤、退庁の時刻、使用乗物、通行径路、同伴者の有無及び立寄り先等を調査し、その結果は、宍戸均を通じて村上被告人に報告された」との事実を認定している。

所論は右事実ことに村上被告人に関する部分は事実に反するとして否定し、宍戸均から、白鳥課長の動静調査の報告を受けたことは一回もない。またその証拠もない。右事実に関する高安知彦の供述は信用できない。原審証拠〔二二八〕によると、同人は、白鳥課長の動静調査中、門脇方や北大の空いている教室に昼間集合したときは、二、三回に一回は村上委員長も出席していたとか、調査の結果は宍戸に報告し、宍戸から村上委員長に報告することになつていたというが、北大はその頃冬休みで教室にはストーブがたかれていなかつたから、そのようなところで会合が行われるはずはない。また門脇方の二階には谷本一之という間借人がいたのであるから、その部屋は勝手に使用できなかつた。この一事によつても高安知彦の供述に信用性のないことは明らかであるというにある。

しかし、右〔二二八〕の高安知彦の供述は、右〔二三一〕ないし〔二三三〕の証拠、当審第八回公判調書中に記載されている同人の供述、同人の高木検察官に対する28・8・17第七回及び第八回28・10・7第二九回各供述調書、司法警察員鈴木勝弥作成の27・1・7実況見分調書、田口桜村の27・1・8鈴木警察官調書、山口隆の28・12・24高木検察官調書、大宮重信の29・4・16蓮沼警察官調書、検察官小杉武雄作成の28・5・20及び28・11・30各実況見分調書、石川敏枝の28・10・27小杉検察官調書、石川千代美の29・1・29、小杉検察官調書等と対比して措信するに足るものといえる。

しこうして前記〔二二八〕〔二三一〕ないし〔二三三〕の証拠を総合すると、冒頭掲記の事実を認めるに難くない。右認定に反する村上被告人の当審第三三回公判廷における供述は、右証拠と対比して措信しがたく、門脇甫の原審第六〇回公判廷における供述、当審第一一回公判調書に記載されている同人の供述、谷本一之の原審第六一回、当審第一五回公判廷における各供述によつても、右認定をくつがえすに足らない。

(10) 原判決は、原審証拠〔二〇〕〔二三三〕にもとずいて「佐藤博は、かねてから村上被告人により、軍事面に使用すべき人物として評価されていたが、昭和二六年一二月頃から、右の分野において活動することとなつた」との事実を認定している。

所論は右事実を否定し、右〔二〇〕〔二三三〕の佐藤直道、追平雍嘉の供述はいずれも事実に反し信用できない。札幌地区に軍事組織はなかつたから、佐藤博をその面で使用するということはありえない。村上被告人は、昭和二六年一二月頃は、まだ党内事情に暗く、直接指導を担当していない円山細胞の一細胞員の人物評価をする資料も知識も持ち合わせていない。佐藤博は昭和二六年一二月中に円山細胞との関係を断つて、軍事面に使用されるようになつたというが、一月上旬もなお円山細胞の指導部を構成していた。これらの点からいつても右両名の供述が、まつたく信用できないことは明らかであるというにある。

しかし昭和二六年一二月頃には、札幌に軍事委員会が組織されていたこと及び北大細胞を基盤とする中自隊が組織されていたものと認めえられることは、先に第七において説示したとおりである。また右〔二〇〕〔二三三〕の証拠のほか、背戸田光治の原審第二一回公判廷における供述、成田良松の原審第四七回公判廷における供述によつても、右中自隊のほかに新たに中自隊を結成し、もしくは既存の中自隊を強化するための、隊員の人選工作のあつたことが窺えるし、村上被告人が昭和二六年一二月頃には、佐藤博と面識があつたことは、同被告人の当審第三三回公判廷における供述によつて認められるから、右〔二〇〕〔二三三〕の佐藤直道や追平雍嘉の供述が措信できないとはいいがたい。所論引用にかかる高津和夫の28・5・7第五回岩渕警察官調書の外28・5・6第四回同供述調書等によると、佐藤博は昭和二七年一月中旬頃までは、円山細胞との関係は完全には断たれておらず、先に述べた一月三日頃の円山細胞の新年宴会にも出席していることが認められるが、昭和二六年一二月頃から、軍事面に適する人物と評価されていたことは、原審証拠〔二二〕によつても窺知できるのである。これらの事情を考え合わすと、右〔二〇〕〔二三三〕の証拠は措信するに足るものというべく、該証拠を総合すると、佐藤博が昭和二六年一二月頃から軍事面に専念するようになつたものとは認めがたいとしても、冒頭掲記の事実は、おおむねこれを認めることができる。右認定に反する村上被告人の当審第三三回公判廷における供述及び高津和夫の当審第一六回公判廷における供述は、右証拠と対比して措信できない。

(11) 原判決は、原審証拠〔二二八〕〔二三三〕にもとずいて「一月一四日ないし一六日頃の夕刻、佐藤博が路上で白鳥課長と遭遇し、これを射殺すべく所携のブローニング拳銃の引金を引いたが発射しなかつたため未遂に終り、その夜同人宅において高安知彦らと不発の原因について検討した。」との事実を認定している。

所論は右事実を否定し、右証拠は信用できないというのであるが、該証拠によつて十分これを認めることができる。

(12) 原判決は、原審証拠〔二二八〕によつて、「一月一六日ないし一八日頃、村上被告人による調査活動は打ち切られ、高安知彦、門脇戌、大林昇の三名は自由労働組合の工作と北大における工作を行うこと、村手被告人は北大細胞にもどり、休養を兼ねて仕事をすること等の指示を受け、それぞれこれに従つたこと、したがつて残つた者は宍戸均、佐藤博、鶴田倫也の三名のみとなつた。」との事実を認定している。

所論は、右事実を否定し、村上被告人は、その頃じん臓病が悪化し、一月一五、六日頃から同月二一日まで止宿先で病がしていたのであるから、高安知彦の述べている門脇方の会合に出席して、右のような指示をするはずがない。またその頃門脇方には谷本一之という止宿人がいたから、その部屋で他聞をはばかる会合を開くはずがない。高安知彦の供述は、捜査官に迎合して述べたでたらめの供述である。そのことは右事実に関する供述が、前後動揺し、くいちがつていることからいつても明らかであるというのである。

村上被告人の原審第八八回、当審第三三回公判廷における各供述、長岡元春の原審第六六回、当審第三一回公判廷における各供述、秋元定吉の原審第六七回公判廷における供述、当審第五回公判調書に記載されている同人の供述、高津和夫の原審第六八回、当審第一六回公判廷における各供述、坂井義の原審第六九回、山本昭二の当審第二七回、小斯波孜の当審第三一回各公判廷における供述及び高安知彦の28・11・20第二回高木検察官調書によると、村上被告人は一月中に持病のじん臓が悪化し、数日病がしたことを認めることができる。その時期について所論は、一月一五、六日頃から白鳥事件の発生した翌朝初めて外出するまで止宿先で安静療養していた旨主張し、右村上被告人、長岡元春、秋元定吉、高津和夫の供述はこれに副うかのごとく解せられるのであるが、しかし小斯波孜は「松の内(一月七日)を過ぎて二、三日か四、五日経つた頃村上被告人が川上というペンネームで診察を受けに来た。その後二、三日して二回目の診察を受けに来たが、そのときはむくみがとれて大分良くなつていた。」旨述べており、山本昭二は「新年宴会(一月三日)後一週間ぐらいして四、五日寝込んだように記憶している。その間村上被告人のアジトに行つて連絡をとつたことがあるが、同人は寝ていた。しかし白鳥事件発生当日の午後村上被告人と街頭連絡をとつた確実な記憶がある。」旨述べている。これらの証拠に佐藤直道の当審第二一回公判廷における供述、追平雍嘉の28・11・17第三四回高木検察官調書を総合すると、村上被告人は一月一〇日頃から病状悪化したため二回にわたり医師の診察を受けたが、二回目の診察を受けた一月一五、六日頃には軽快に向つていたことが認められ、引き続き療養につとめたにしても一月二二日の朝まで一回も外出しなかつたものとは認めがたい。

前記証拠の中右認定に抵触するものは措信できない。また谷本一之の原審第六一回、当審第一五回公判廷における供述によつても、同人は受験準備のため週二回位は昼間ほとんど外出していたことが認められるから、門脇方に同人が止宿していたとの一事により、同人の部屋で昼間会合を開いたとの高安の供述が信用できないものとは認めがたい。なお高安知彦の28・10・7第二九回、28・11・20第三五回高木検察官調書や〔二二八〕の証拠との間には、原判示前記会合の日時、場所、出席者の顔ぶれ等についてくいちがつている点もあるが、それは記憶の混同にもとずくものと認められ、事実の本筋に関する供述には、いちじるしい変転の跡は認められないから、これをもつて所論のごとく原審証拠〔二二八〕の信用性を疑う理由とはなしがたい。

しこうして右〔二二八〕の証拠によると、冒頭掲記の原判示事実を十分認めることができる。右認定に反する村上被告人の原審ならびに当審公判廷における供述は、右証拠と対比し措信できない。

(13) 原判決は、原審証拠〔二二八〕にもとずいて「高安知彦、門脇戌、村手被告人の三名は、一月二〇日か二一日の午後三時頃から指示を受けて待機したが、白鳥課長を見失つたとの連絡を受け解散するに至つた」との事実を認定し、この事実から、全員による動静調査を中止した後も、白鳥課長殺害のための活動が行われていたことが推認できる旨判示している。

所論は右事実を否定し、該事実に関する高安知彦の供述は、信用できないというのである。

所論引用の証拠(高安知彦の高木検察官に対する28・10・12第三二回、28・10・20第三三回、28・11・10第四九回各供述調書)を対比、検討すると、高安知彦の当初の記憶では、鶴田倫也が白鳥課長を追尾したが見失つた旨報告したのは、その事件の翌日頃の会合の席上であつたというのであつて、白鳥課長暗殺直前の緊迫した空気の中で待機命令を受け、待機中にその報告を受けたものでないことが明らかである。また右各供述調書によると、待機命令を受けた場所、連絡者、村手被告人の参加の有無等について判然とした記憶がないこと、あらかじめ予測しえない白鳥課長の行動に備え、午後三時頃待機命令が出たというのは不自然の感があることに鑑みると、前記事実に関する高安知彦の供述はたやすく信用することはできない。原判決が、前記事実認定の証拠として〔二二八〕の証拠を採用したのは、証拠の価値判断を誤つたものといわざるをえない。従つて原判決の判示する右待機の事実は、証明不十分であつて、これを認めることができない。

(14) 原判決は、原審証拠〔二四〕によつて、「鶴田倫也が高安知彦ら中自隊員の中では隊長格であつたとの事実」、〔二二八〕によつて、「鶴田倫也は、高安らとは別に宍戸均ほか数名位と一月一〇日頃、札幌市内円山の警察官射撃訓練場で射撃訓練を行つた」との事実を認定している。所論は右事実を否定するが、右証拠によつてこれを認めることができる。

(15) 原判決は、原審証拠〔二三三〕によつて「佐藤博も拳銃の射撃訓練を行つたことがある」との事実及び原審証拠〔二二七〕によつて「同人は一月初め頃佐藤直道方で及び同月一〇日頃自宅において白鳥課長は生かしておく必要がない旨語つた。」との事実を認定している。

右証拠によれば右の事実を認めることができる。高津和夫は、原審第六八回、当審第一六回公判廷において、右〔二二七〕の証拠(28・5・16第二回小杉検察官調書)は任意性がない旨供述しているが、その形式、内容に徴し、かつ追平雍嘉の29・2・23第六回高木検察官調書と対比し、任意の供述を録取したものと認められる。

(16) 原判決は、原審証拠〔四六〕にもとずいて、「佐藤博は、一月二一日いわゆる白鳥事件に近い頃にも自宅においてブローニング拳銃を所持していた」との事実を認定しているが、その認定に誤りはないものと認められる。

(17) 原判決は、原判示第二の(二)の(2)の(イ)事実認定に引用した証拠にもとずいて「右の(11)及びに出てくる拳銃は、村上被告人が宍戸均と共謀のうえ、石川重夫の仲介で入手した拳銃と同一物である。」との事実を認定しているが、その認定に誤りのないことは、先に原判示ブローニング型拳銃所持の事実について、第八において説示したとおりである。

(18) 原判決は、主として原審証拠〔二三三〕〔二一一〕ないし〔二一七〕にもとずいて「佐藤博は、一月二二日頃追平雍嘉に対し、白鳥課長殺害の犯人は自分である旨うち明け犯行の状況を詳細に語つていたこと及びその状況、佐藤博の人相、風態は、目撃者の供述、犯行現場の実況見分の結果、死因、兇器等に関する鑑定の結果とほぼ一致している。」との事実を認定している。

所論は、右事実に関する追平雍嘉の供述は、まつたく虚偽の創作である。追平雍嘉が、白鳥事件発生の翌日佐藤博方を訪れ、同人から聞いたという事実の中、犯人自身の体験でなければ、述べられないと思われる事項については、ことごとく客観的事実に背馳する。また供述の内容自体も前後動揺して矛盾に満ちている。のみならず、追平雍嘉が佐藤博方を訪れたという時刻には、佐藤博は在宅しておらず弟佐藤毅と共に映画を見ていた事実からいつても、同人の供述は信用できないというのである。以下原審証拠〔二三三〕の追平の供述中所論の指摘する主要な疑問点について検討を加え、同供述が信用できるかどうか考察することとする。

(イ) 拳銃を二発連続発射したが、二発目の薬きようは、拳銃を包んでいた手ぬぐいの中に残つていたという応答は信用できるか。

〔二三三〕の追平雍嘉の供述によると、佐藤博方へ行つた日の朝刊かその前の夕刊かに、弾丸が二発発射されたのに薬きようは一個しかなかつたと出ていたし、また佐藤の家に来る途中現場を通つたところ、警察の連中が変な箱みたいなものをもつて雪をふるつていたので聞いたところ「薬きようを探している。」とのことだつた。それで佐藤に「薬きようをどうした」と聞いてみたら「手ぬぐいに包んで射つたので二発目の薬きようが手ぬぐいに引つかかつて残つてしまい、あとが射てなかつた」といつたというのである。

佐藤博の答えたことが真実だとすると、先に白鳥課長射殺の事実認定の際附言したごとく、犯人は二発連続して射撃したと思われるのに、しかも丹念に現場附近の捜索が行われたのに、遂に薬きようは一個のみしか発見できなかつたなぞが解けるわけである。

ところで所論引用にかかる追平雍嘉の29・2・24第九回高木検察官調書及び原審第一三回公判調書によると、同人は午前中北大へ行き、その帰途白鳥課長射殺の現場を通つたように思う。朝現場を通つた際薬きようの捜索が行われているのを見た旨述べているが、同日の薬きよう捜索が午後から行われたことは浅川房松の原審第五七回公判廷における供述によつて明らかである。また手記調書中の図面(記録七三八三丁)によると、同人の止宿していた小野弥吉郎方から佐藤博方へ行く途中、右犯行現場を通るには、反対方向へ遠廻りしなければならないことが認められる。追平雍嘉は手記調書で、小野方からまつすぐ佐藤博の家へ行つたのでないことは確実であると述べているが、何処へ行つたか不明である。(同調書によると北大から佐藤博方へ直接行つたように記憶していたようにも窺えるが、あいまいである。)しかし他面小山しげ子の原審第七〇回公判廷における供述によると、時刻の点はしばらくおき、追平雍嘉が一月二二日午後南一七条西四丁目の右小山方へ立寄つた可能性のあることが認められるから、追平雍嘉が、同日午後犯行現場を通つた事実はないものと断定することはできないが、自己に嫌疑のかかるのを恐れていたという同人が、警察官に何をしているのかと尋ねた、というのはいささか不自然の感がある。拳銃を手ぬぐいで包んだまま射つたという点や薬きようが手ぬぐいにひつかかつたために三発目が射てなかつたという点にも疑念を抱かせられるのみならず、手記調書によると手ぬぐいまたは布となつており、さらにさかのぼつて第一回手記を調べてみると、同手記には二発目の薬きようがピストルにひつかかつて残つていたことを後で気がついたが、ピストルはこわれていなかつたと記載してあるのみで、手ぬぐいや布のことには触れていない。第一回手記は未定稿と認められるから、記憶のすべてが書き尽くされていないからといつてとがめるのは当らないが、以上の事実をかれこれ考え合わせると、追平雍嘉と佐藤博との間に薬きようの話が全然出なかつたと断定するのは早計であるとしても、果して〔二三三〕の証拠にあるような応答がなされたかどうか疑問とせざるをえない。

(ロ) 白鳥課長を尾行した経緯に関する応答は信用できるか。

〔二三三〕の証拠によると追平雍嘉が「どうしてああいうところでやつたのだ」と聞いたところ佐藤博は「初めは薄野方面でやる予定だつた。そうすれば不良がやつたように見せかけることができるから。それで鶴田と二人で後をつけたのだが、途中で見失つてしまつたので一時中止し、鶴田と別れて帰つて来たら再び見つけたのであそこでやつてしまつた。」と答えたというのである。

鶴田と別れて帰つて来たら再び見つけたというのは、何処まで帰つて来たというのか不明であるが、佐藤博の話したことを全部記憶しうるものではないから、不明の点があるからといつて一概に信用性がないとはいえない。

ところで和田武雄の30・10・12小杉検察官調書、岩城雷乗の29・3・31北林警察官調書、後藤はるみの27・3・29木村警察官調書によると、白鳥課長は、一月二一日午後四時五五分頃札幌市中央警察署を退庁して帰宅前に同市薄野方面に廻つたことを認めることができるが、同日午後七時頃同市南六条西五丁目の横井呉服店附近で後藤はるみと会つた以後、七時四〇分過ぎに犯行現場を通りかかるまでの足取りは、これを推定しうる何らの証拠もない。後藤はるみと別れてそのまま南六条通りを帰路につくべく西進したとすると時間関係が符合しない。ただ射殺される直前犯行現場附近の南六条通りを西進していたことは、この点に関する原審証拠によつて十分認めることができる。第一回手記によると佐藤博は南六条通りをまつすぐ西に白鳥課長をつけて現場まできたと話した旨記載されているが〔二三三〕の証拠では、その点に触れていない。つぎに手記調書によると一度あきらめて○○と別れたが、しやくだからつけてきた(確か名前をいつたがミチ(鶴田のこと)の可能性が多い。)旨記載されていて、〔二三三〕の供述が確定的であるのと比べ記憶が薄かつたことが認められることは所論のとおりである。しかし前記事実に関する手記調書と〔二三三〕の証拠は、枝葉の点では符合しない個所もあるが、事実の本筋に関する供述にはさして変転の跡がないものと認められ、かつ、白鳥課長が薄野方面に廻つたことの裏付け証拠はあるから、追平雍嘉の右供述は措信するに足るものといえる。

(ハ) 自転車に関する応答は信用できるか。

〔二三三〕の証拠によると追平雍嘉は佐藤博が、「そのとき乗つていた自転車は「オト」から借りたと話したのを記憶している旨供述し、引きつづき「オト」という意味は、札幌委員会のレポをしていた音川のことか、それとも弟のことかはつきりしない旨追平自身の見解を述べていることを認めることができる。所論引用にかかる追平雍嘉の29・2・24第九回高木検察官調書によると、同人の供述として「オト」というのは合法事務所という意味かも知れない旨記載されていることが認められ、その点に関する供述が動揺していることは所論のとおりである。しかし、これらの証拠を対照すると、佐藤博が「オト」の自転車を借りた旨話していたという点では一致している。ただ「オト」という意味についての追平雍嘉自身の見解が二、三にわたつて述べられたものであることを看取するに難くない。所論は、いずれにせよ追平のいう自転車は、いずれもがたがたの中古品で、犯人の乗つていた自転車を目撃したという坂本勝広の述べるような速力を出しうる性能はない。追平の供述が二転し三転したのは、同人の供述にもとずき、検察官のつぎつぎ押収した自転車の性能が、いずれも目撃者のいう自転車の性能に及ばないことが確められたがために外ならないというのである。原審証拠〔二一三〕の坂本勝広の供述によると、射殺犯人の乗つていた自転車が相当の速度で疾走し去つたことを認めることができるが、突差の間目撃したに過ぎないから、同人の供述によつて、その自転車の形状、性能を確認することは困難である。「オト」という意味は、合法事務所の意味に解しえないことは明らかであるが、追平雍嘉の述べるごとく音川あるいは弟の両様の意味にとれるわけであつて、同人がそのいずれとも断定しかねて確定的な供述をしえなかつたことについては、相当の理由があるものというべく、必ずしも所論の理由によるものとは認めがたい。故に所論指摘の部分に動揺の跡があるからといつて、追平雍嘉の右供述が真実に副わないものとはいえない。

(ニ) 白鳥課長を射殺した前後の情況に関する応答は信用できるか。

〔二三三〕の証拠によると、『ぼくは前にブローニングは片手では射てないという話を聞いていたので自転車のハンドルを持ちながら射つのは難しいと思い「どうやつて射つた。」と聞いてみたら、「速力をゆるめて来て、自転車に乗つていた白鳥課長のすぐ後ろまで来てペタルを止めて射つた。」「射つたら途端に倒れてしまつたので、まつすぐに来て西一七丁目のところを南に曲つた。」ということで、それからどこかえ行つたということは聞いたが、覚えていない。』旨述べられている。原審証拠〔二一三〕によると、目撃者坂本勝広は、バン、バンと二回続いて音がしたので、振り返つてみたら、先程の二台の自転車の内左側に居た人が道路に倒れるのが見えた。右側の人は、自転車に乗つたまま片足を降ろしているのかどうかわからないけれど、進んで来る気配がなかつた旨述べているが、その情況は、佐藤博がペタルを止めて射つた旨話したとの追平供述と符合するし、そのことは第一手記にも記載されているのである。もつとも追平雍嘉は、右〔二三三〕の証拠によると佐藤博は「射つたら途端に倒れてしまつたので、まつすぐに来て西一七丁目のところで南に曲つた」旨答えたと述べているが、この点について第一手記では、一七丁目の通りをまがつたと聞いたが、どちらにまがつたかは聞いたかも知れぬが覚えていない旨記載されており、手記調書には犯人の逃走経路について新聞でも何とか書いてあつたので、「まつすぐ行つたのか」と聞くとヒロは「バス通りのところまでゆうゆう来て北か南かに曲つてから、一七丁目通りを全速力でぶつとばして××に(あるいは××で)自転車をあずけた(とか渡した)」と話していた旨記載されていて、西一七丁目のところを南に曲つたと当初から明確に述べていないことを看取することができること所論のとおりである。なお手記調書によると、バス通りのところまでゆうゆう来たと記載されており、このことは目撃者高橋アキノの供述調書〔二一二〕中その人(犯人)は急にスピードを出して逃げて行くような様子はなかつた旨の記載と符合するかのごとくみられるが、前記〔二一三〕の調書中右側に顔を向けた瞬間その男が腰を上げて物すごい勢で自転車を踏みながら追い越して行つた旨の記載に反することとなる。右の点について〔二一二〕と〔二一三〕の証拠を対比すると、その前後の情況に関する供述の内容から推して〔二一三〕の証拠の方がより信用できるものと認められる。従つて手記調書に記載してあるとおり、バス通りのところまでゆうゆう来て北か南に曲つた旨佐藤博が果して話したとすると、それは真実に副わないものと認められる。また佐藤博の行く先について聞くことは聞いたが忘れたという点について、疑念を生ずる余地はある。このように細かく検討してゆくと追平雍嘉の供述には、前後の供述にくいちがいがあつたり、当初ばく然とした記憶が後になるほど明確になつたりしている点に疑念を生ずる余地がなくもないが、事実の本筋に関する供述には、いちじるしい変転の跡があるものとは認められない。右事実に関する原審証拠と対比し、〔二三三〕の追平供述は、おおむね信用できるものと認められる。

(ホ) 犯行後佐藤博が村上被告人に報告に行き、同被告人から金をもらつたことに関する応答は信用できるか。

佐藤博が村上被告人に報告に行つたときの情況について、第一回手記には、事件後自転車は別の人間(不明)に渡して、K(たぶんKといつたと思う)に金をもらつて、帰りにどこかの屋台で一ぱい飲んで自宅へ帰つたと聞いた旨記載されており、手記調書には、Kに報告に行つたら……驚かなかつたのはKだけだつた。Kがすぐあとのことを相談してくれ、帰りには「今日は一ぱい飲んでもいいぞ」といつて金をくれたので、××の屋台で一杯飲んで帰つたと聞いた旨記載されており、なおその時の話の様子ではヒロはKの出ている会議の場所を知つていて、そこへ報告に行つたものと思われる旨の推測を記載している。しかるに右〔二三三〕の証拠によると、「それから佐藤は村上君やなんかのところへ知らせに行つたが、そうしたら、他の連中は皆びつくりしていたが、村上君だけは驚かなかつた。村上君から「二、三日なら居てもいい。」といわれて金を少しもらい、自転車を一時預けに預け、一ぱい飲んで一一時頃家に帰つたとのことであつた旨述べている。これらの証拠を対比すると、右事実に関する追平雍嘉の記憶は、時の経過につれて却つて明確化され、拡げられている点に不自然さが感じられる。追平供述は、同人の推測または他から聞知した事実と経験した事実を混こうまたは附加して述べているのではないかと疑わざるをえない。追平供述に照応する高安知彦の供述〔二二八〕にも不自然さが感じられて、たやすく措信しがたい点があるのみならず、同人の供述が真実とすれば、佐藤博は会議の席上で村上被告人に犯行の模様を報告したと話していたという追平供述と背馳することとなる。追平雍嘉の供述が全く虚偽であるとは認めがたいふしもあるにはあるが、同人の聞知した範囲は第一回手記の範囲を出でなかつたものと認めるのが相当である。同証拠によつては、佐藤博が事件後村上被告人に直接あつて犯行の情況を報告し、同被告人から金をもらつたとの事実を確認するに足らない。原判決も、佐藤博が犯行後村上被告人に報告に行き、同被告人から、金をもらつたという事実を認定したうえ、これを村上被告人の罪責認定の間接証拠に挙げることを避けている。原審証拠〔二三三〕〔二二八〕の証拠中、右事実に関する部分は、採証の資料たるに値いせず、これを除外すべきであると考える。

(ヘ) 追平雍嘉が、佐藤博方を訪れた頃同人は外出していて不在であつたか。

白鳥事件発生の翌二二日、佐藤直道、追平雍嘉、荒木五郎の三名が、前記小野弥吉郎方で会合し、前日行つた一ノ関某の査問の結果をとりまとめたことは、右三名の当審公判廷における各供述により明らかである。その開始時刻と終了時刻は、午後である点を除き一致しない。荒木五郎は午後二時頃から始め、三時半か四時頃に終了した旨述べているが、佐藤直道や追平雍嘉の供述と対比し必ずしも正確なものとは認めがたい。ところで佐藤毅の当審公判廷における供述によると、同人は同日午前一〇時五〇分頃兄博が訪ねてきたので、いつしよに名画座へ映画を見に行き三時半頃別れた旨供述している。一方〔二三三〕の証拠によると、追平雍嘉は午後二時か三時頃佐藤博方へ行つた旨述べており、両供述は相容れないかのごとくであるが、これまた正確な時刻とは認めがたい。佐藤博が名画座へ行つた事実があつたとしても、その時間関係は、必ずしも正確なものでないことが、佐藤毅の右供述自体によつて窺われるのみならず、兄弟間の人情の機微に思いを致すとき、他の裏付け証拠なくしては、たやすくその供述の正確性を措信することはできない。また小山しげ子の原審ならびに当審公判廷における供述によつても、所論の事実を肯認するに足らない。かれこれ思い合わせると、追平雍嘉が一月二二日の午後佐藤博方を訪れたとき、同人は不在であつたとの所論は、これを首肯しがたいものといわざるをえない。なお二階堂郁子の原審ならびに当審公判廷における供述によつても、追平雍嘉が佐藤博方を訪れた事実はないとの心証を形成するに至らない。

以上述べたところにより、〔二三三〕の追平供述中薬きように関する部分や犯行後村上被告人に会つて情況を報告し金をもらつたとの部分は、たやすく信用しがたいが、その他の部分は、おおむね信用できるものというべく、所論のようなくいちがいや不明確な点があるからといつて、全面的に信用性を欠くものとは認めがたい。しこうして所論中追平供述には全面的に信用性がない旨のその余の各主張は、いずれも、独自の心証にもとずく所見と解せられるのであつて、これと所見を異にする当裁判所の首肯しがたいところである。さて、〔二三三〕の証拠中措信しがたいとして除外した部分を除いても、これと〔二一一〕ないし〔二一七〕の証拠を総合すると、本項冒頭掲記の事実をおおむね認めるに難くないのであつて、これと結論を同じくする原判決の事実認定及びこれにもとずく判断には、結局所論のような誤りはないものといえる。

(19) 原判決は、主として原審証拠〔四七〕〔四九〕ないし〔二一七〕〔二三四〕〔二三五〕にもとずいて、「高安知彦らがブローニング拳銃の射撃訓練をした場所から発見された二個の弾丸と、白鳥課長の体内より発見された弾丸は、いずれも公称口径七・六五ミリブローニング自動装てん式拳銃または同型式の腔線を有する拳銃より発射されたものと認められること、及び右の三弾丸の線条こんには極めて類似する一致点が存する」との事実を認定している。

所論は右事実を否定しているが、右証拠を総合すると原判決の認定に誤りがないものと認められる。その理由は既に第四において詳述したとおりである。

(20) 原判決は、原審証拠〔二三六〕にもとずいて「村上被告人は、佐藤博による白鳥課長殺害未遂の事実を知つており、後にこれを佐藤直道に語つたとの事実及び村上被告人が佐藤直道に対し、白鳥課長を射殺したのは佐藤博である旨語つたことがある。」との事実を認定している。所論は右事実を否定し、一月二三日には札幌委員会において白鳥事件に対する基本的態度を決めるための指導部会を開き、翌二四日には地方委員会からの指示を受けたので、同月二七、八日頃さらに札幌委員会の指導部会を開いた。佐藤直道はその都度指導部会に出席していたから、同人のいうごとく一月二七、八日頃村上被告人が、佐藤直道のアジトを個人的に訪ねて協議する筋合も必要もない。のみならず佐藤直道の供述によると午前八時半か九時頃訪ねてきたというのであるが、村上被告人は、その頃毎朝午前八時五〇分頃レポーター山本昭二と街頭連絡をとることになつていたから、佐藤直道のいう時刻に同人方を訪れることは不可能である。また村上被告人の訪ねて来たとき宋方では皆寝ていたという供述が真実に副わないことは長尾英子の27・12・17検察官調書によつて明らかであるというのである。

しかし山本昭二の当審第二七回公判廷における供述と対比し、村上被告人がその頃毎朝所論の時刻に山本昭二と街頭連絡をとつていたものとは認めがたいのみならず、仮に連絡をとつていたとしても、その所要時間は通常一五分ないし二〇分位であることが右山本昭二の供述によつて認められるから、佐藤直道のいう時刻に同人方のアジトを訪れることが時間的に不可能であるとは認め難い。また所論長尾英子の検察官調書によつても、右佐藤直道の供述が真実に副わないものとは認め難い。右〔二三六〕の証拠は、その内容自体に徴し、また原審証拠〔二二八〕〔二三三〕、佐藤直道の荒谷検察官に対する27・11・16第三四回、27・11・17第三五回供述調書と対比し、措信するに足るものというべく、該証拠によれば、本項冒頭掲記の事実を認めるに難くない。右認定に反する村上被告人の原審公判廷における供述は、右証拠と対比し措信できない。

(21) 原判決は、主として原審証拠〔二二八〕にもとずいて『白鳥事件の翌日、高安知彦が北学寮の大林昇の居室において鶴田倫也に対し、自分らの計画が実現されたことを喜ぶような態度で「やつたな」との趣旨のことをいいながら握手を求めたところ、鶴田はにやつと笑いながらこれに応じたとの事実及びその時村上被告人がいわゆる天ちゆうビラの原稿を書いていた』との事実を認定している。

所論はこれを否定するのであるが、該事実は右証拠によつて、認めるに難くない。なお、天ちゆうビラの点については、後に第一六において、さらに詳しく説示するところに譲る。

(22) 原判決は、原審証拠〔二五一〕ないし〔二七一〕によつて「村上被告人は、右のいわゆる天ちゆうビラを印刷させたうえ、これを札幌市内に配布させたが、これには白鳥課長の暗殺が正当であること及び犯人を孤立させてはならぬとの趣旨のことが記載されているとの事実を認定し、さらに原審証拠〔二三六〕〔二三七〕によつて、「一月二三日頃札幌委員会においては、白鳥事件を党の方針に影響された愛国者が行つたものであるという態度のもとに、これをカバーすべく政治的宣伝を行い、また警察官の捜査活動に抗議しようとの決定をした」との事実を認定している。

所論は右事実を否定するのであるが、該事実は右証拠によつて認めることができる。なお天ちゆうビラ配布の事実については、第一六において述べるところに譲る。

(23) 原判決は、原審証拠〔二三八〕〔二三九〕にもとずいて「村上被告人は、一月二四、五日頃高安知彦ら中自隊員をして下級警察官に対し、警官有志の名をもつて、白鳥事件の捜査に協力することをやめようとの趣旨の郵便はがきを郵送せしめた。」との事実を認定している。

所論は右事実を否定し、原判示捜査妨害のはがきは一月二四、五日頃に出されたものでなく、一月二三日中の午後四時以後に出されたものである。従つて高安知彦のいう門脇方の協議は、二三日の午前中から開かれたものといわねばならないが、村上被告人は、同日午前一〇時頃から市内東七丁目の伊藤次吉方で事件後最初の指導部会議を開き、同会議に出席したから、門脇方の会合に出席することは不可能である。右事実によつても高安知彦の供述は信用できないことが明らかであるというのである。

原審証拠〔二三九〕のはがきの中、昭和二七年一月二四日午前八時から一二時までの消印のあるものは、同月二三日午後四時以降二四日午前九時半までに投かんされたものと認められることは、木全康生の31・5・11小杉検察官調書によつて明らかである。ところが二四日午前中に投かんされたものでないことは、高安知彦の28・10・26第三八回高木検察官調書によつて、これを認めることができるから、右はがきは二三日中の午後四時以後に投凾されたものと認めるのが相当である。夕方に書いて出した記憶であることは、高安の一貫して述べるところである。(右第三八回高木検察官調書、28・9・22第二二回荒谷検察官調書、原審証拠〔二三八〕参照)

しかるに二三日午前一〇時頃から午後一時頃まで右伊藤次吉方で札幌委員会の指導部会議が開かれ、村上被告人が同会議に出席したことは、佐藤直道の荒谷検察官に対する27・11・16第三四回、27・11・17第三五回、27・11・28第三九回各供述調書、原審第四〇回公判廷における供述、村上被告人の原審第八八回公判廷における供述、長岡元春の当審第三一回公判廷における供述により認めるに難くないから、高安知彦のいう会合が、二三日午前中に開かれたとすると、村上被告人が、その会合に出席することは不可能といわねばならない。しかし、指導部会議終了後において、右高安らとの会合が開かれたとすると、これに出席することは可能である。ところで高安知彦の原審第三九回公判廷における供述中右会合は昼間に開かれた旨の供述、同人の28・9・22第二二回荒谷検察官調書中よく考えてみると二三日の昼間北大で中自隊の誰かから門脇方に集るようにいわれて同人方へ行つた旨の供述記載を総合すると、右会合は一月二三日午後開かれ、村上被告人もこれに参加したものと認めるのが相当である。所論引用にかかる高安知彦の28・10・26第三八回高木検察官調書中会合の開始時刻の点は、右証拠と対比して、同人の記憶違いにもとずくものと認められる。してみると原判決が、捜査妨害はがき発送の日を一月二四、五日頃であると認定したのは、日時の点で認定を誤つているものといえるが、右〔二三八及び〔二三九〕の証拠により、村上被告人が高安知彦らをして原判示はがきを郵送させたとの事実を認めることができるからその程度の誤りは判決に影響がないものといえる。

(24) 原判決は、原審証拠〔二三六〕〔二三七〕にもとずいて、『白鳥事件後日本共産党北海道地方委員会の村上由が、白鳥事件は党と無関係である旨の新聞談話を発表したが、これに関し村上被告人は「由のやつ、裏切りやがつたな。」と憤慨していた。』との事実を認定している。

所論は右事実を否定するが、右証拠によつて十分認めることができる。右認定に反する村上被告人の原審第八八回公判廷における供述は、右証拠と対比し措信できない。

(25) 原判決は原審証拠〔二三六〕〔二三七〕にもとずいて、「二月初め頃地方委員会では、白鳥事件は農民的ゴロツキ的であり、プチブルのあせりであると結論し、村上被告人に自己批判を求めた。」との事実、「右のごとき地方委員会の見解に従い、札幌委員会の白鳥事件に対する態度ないし方針が逐次変化していつた。」との事実を、また原審証拠〔二三六〕にもとずいて「八月下旬頃地方委員会の幹部教育が行われ、軍事方針の偏向について論議した際、議長の吉田四郎は「白鳥事件は吹田事件などに比べ比較にならない程偏向している。」と述べ、札幌委員会全体が自己批判すべきであると語つた。」との事実を認定している。

所論はこれを否定するが、右証拠によつて認めることができる。村上被告人の原審第八八回公判廷における供述中、右認定に反する部分は、右証拠と対比し措信できない。

(26) 原判決は、原審証拠〔二四〕〔二四〇〕ないし〔二五〇〕にもとずいて「白鳥事件後、高安知彦ら中自隊員はその任務をとかれ、また住居を移転し、やがては所在不明となる者も多かつたが、これには村上被告人を始めとする党関係者が関与しているものと推認される。」という事実を認定し、これにもとずく判断を示している。

所論はこれを否定するが、右証拠によつて該事実を十分認めることができ、これにもとずく原判決の推定に誤りはないものと認められる。

さて以上列挙の(1)ないし(26)の事実について、誤認がある旨のその他の所論は、すべて独自の心証にもとずく所見と解せられるのであつて、これと所見を異にする当裁判所の首肯しがたいところである。ところで右事実の中(5)及び(13)の事実は認めがたいからこれを除き、その余の事実の認定に供せられたすべての原審採証(ただし村手被告人の検察官調書中前記伝聞供述と認めた部分を除く。)と、既に第七において認定したごとく、村上被告人及び宍戸均は、いわゆる軍事委員会を構成し、村上被告人がその責任者であつたという事実及び村手被告人、鶴田倫也、門脇戌、大林昇、高安知彦らが、右軍事委員会の指揮統卒を受けるいわゆる中自隊の隊員であつたという事実とを考え合わせると、原判示第二の(七)の事実すなわち村上被告人が、佐藤博、宍戸均、鶴田倫也と共謀して、白鳥課長を殺害した事実及び村手被告人がこれを幇助した事実を十分認めることができる。してみると、原判決の前記採証の誤り及び事実の誤認は、原判決に影響するところがないものというべく、結局原判決の認定は、誤りなきに帰する。

なお所論は、白鳥課長が殺害される数分前に、札幌市南六条西一三丁目路上で、同課長及び同人と並行して自転車を走らせていた男すなわち犯人と推定される男を目撃した伊藤幸は、佐藤博を熟知しているものであるが、同女は右白鳥課長と並行していた男は、佐藤博ではないことを確認している。また佐藤直道は、白鳥課長が殺害される直前通過したと推定される市電停留所で、同時刻頃荒木五郎らを待ち合わせていたことが認められるから、白鳥課長を追尾していた男が佐藤博であつたのなら当然気ずくはずであるが、全然気ずかなかつたという事実がある。これらの事実によつても白鳥課長殺害の犯人が佐藤博でないことが明らかであると主張するので、この点について考察するに、伊藤幸の原審第六五回、当審第二九回公判廷における同人の供述は、同供述によつて認められる午後七時頃札幌市南六条西二一丁目の自宅を出てから、白鳥課長を見かけたという南六条西一三丁目まで約八丁の間を歩行するに要したと推定される時間と、白鳥課長が、同所を通過したと推定される時刻との誤差ならびに山川敬一、平井英通の原審第六七回公判における供述によつて、同人らがその頃自転車に乗り、並行して同地点を通過したのではないかと疑わしめる事情のあることに鑑み、たやすく措信しがたいのみならず、仮に同女の目撃した一人が白鳥課長であつたとしても、その供述自体によりこれと並行していた他の一人が佐藤博でないことを確認していたものと信じうる程度の心証は形成しがたいから、採つてもつて、前記認定をくつがえし、所論の事実を肯認するに足る証拠とはなしがたい。また佐藤直道が、所論の時刻頃所論の場所にいたことは、同人の原審ならびに当審公判廷における供述によつて十分認めることができるが、通行人に留意していなかつた旨の同人の供述は措信できるから、所論の理由によつて、白鳥課長殺害の犯人が、佐藤博でないとの所論も採るをえない。

その他記録中被告人両名に原判示第二の(七)の罪責があることを肯定した先の認定に反するすべての証拠は、同事実に関する原審証拠と対比して、いずれも採用しがたく、記録をよく調べてみても、原判決に所論の誤りがあるものとは認められない。原判決の認定は相当である。

(二) なお所論中、仮に原判示のとおり佐藤博が白鳥課長を殺害したこと、村上被告人が一月四、五日頃宍戸均と共に鶴田倫也ら五名を召集して、白鳥課長殺害の方法は拳銃を使用する旨を告げたこと、村上被告人と宍戸均の両名が、佐藤博を白鳥課長殺害の実行行為担当者に選び、ブローニング拳銃を携行させ、調査活動と並行して殺害の機をうかがわせたことが認められるとしても、これらの事実から推認される村上被告人及び宍戸均の共謀の認識としては、せいぜい佐藤博がブローニング拳銃を使用して、何らかの機会に白鳥課長を殺害するであろうことを予測していたというに過ぎない。殺害の日時、場所、方法等について、具体的認識を欠いていたことは明らかである。しこうして仮に共謀共同正犯の理論が是認されるとしても、最少限各共謀者において、実行の具体的日時、場所、方法等についての認識を必要とするとの解釈がとられなければならない。以上の見地からいうと、村上被告人は、殺人教唆もしくは幇助の罪責があるに過ぎないとの主張について判断する。

村上被告人及び宍戸均が、佐藤博と白鳥課長殺害の謀議を遂げた際、その日時、場所、方法等についてまで、具体的に謀議決定したと認めうる証拠のないことは所論のとおりである。従つて、同人らは、右の点について認識を欠いていたものと認定せざるをえないが、しかしたとえ当初の謀議に際し、日時、場所等について具体的に協議決定することなく、機に応じて実行しうるように、殺害の機会、手段方法を実行行為担当者の判断に一任したとしても、殺害の謀議参加者が、その後も力を合わせて被害者の動静調査を遂げ、密接な連絡を保ちつつ、相協力して殺害の目的を遂げたものと認めうるような場合には、共同犯行の相互認識があるものと解するに妨げなく、共同正犯の罪責を免れえないものと解すべきである。原判決認定にかかる村上被告人及び宍戸均の行為は、まさにこのような場合に該当するものと解せられるから、殺人共同正犯としての罪責を免れえないものと解すべく、教唆もしくは幇助の罪責があるに過ぎないとの所論は採用の限りでない。原判決には所論のような事実誤認もしくは法令適用の誤りはない。

(三) つぎに所論中仮に右の主張が容れられないとしても、原審証拠〔二二七〕によると、佐藤博は、原判決が村上被告人らと謀議を遂げたと認定する一月一四日ないし一六日以前において、既に白鳥課長殺害の決意を固めていたものと認めなければならない。しからば、村上被告人が、殺人の共同正犯もしくは教唆犯の罪責を負わねばならないいわれはなく、拳銃を携行せしめたという点で幇助罪が成立するに過ぎない。原判決はこの点で理由のくいちがいもしくは事実の誤認または法令適用の誤りがあるとの主張について案ずるに、原審証拠〔二二七〕によると、佐藤博が一月初旬頃及び同月一〇日頃所論のような意見を述べたことを認めることができるが、これによつて所論のごとく、佐藤博が、当時既に白鳥課長を単独で殺害する決意を固めていたものと認定するに足りる証拠とはなしがたい。原判決には所論のような違法はない。

第一六―第一九≪省略≫

なお、職権をもつて案ずるに、上来説示するところを総括すると、原判示第二の(七)の罪について、村上被告人は、原判示犯行を計画指導した主謀者であることが認められるから、その犯情は極めて重く、しかも同被告人は、みずから堅く信ずるところがあつて、その非を認めようとはしないから、科するに無期懲役刑をもつてした原判決の量刑に、さらに検討を加える余地はないかのごとくにも思えるのであるが、他面同被告人は、日共党員として、かつまた同党組織の札幌における責任者として、当時の党の方針に応じて活動せざるを得なかつたものであつて、たとえ同被告人の企てたところのものが、党の企図した方針より偏向して、より過激なものであつたとしても、少くともそれによつて、多大の影響を受けたであろうことは容易に察知されるので、同被告人の所為をもつて、すべて同被告人の過激な思想ないし性格にもとずくものとのみ断ずることはできないとして、死刑の選択を避けた原判決の判断を重ねて吟味し、さらには日共が五全協の新方針を打ち出した当時の周知の国際的ならびに国内的政治、経済、社会情勢と、八年有余歳を過ごしたその後の経過を顧りみ、さらには本件がその当時と現在の一般社会感情に及ぼす影響等を併せ考えるとき、なお春秋に富む同被告人をして、獄中に生を終わらしめることの可否については、さらに慎重考慮の要あるものと認める。のみならず、本件未決勾留が、やむをえない特殊の事情によつて長期にわたつたものであるとはいえ、憲法第三八条刑訴法第一条の精神を虚心にくむとき、五年有余にわたる未決勾留日数は、その一部を本刑に通算するのが至当であると考える。このことは、科するに無期懲役刑を選んだ場合でも、法律上可能であり、かつ将来減刑の機会絶無とはいえないことに鑑み、意味があるといえるのである。そもそも刑法第二一条が未決勾留日数を本刑に算入することができるものと規定した法意は、もともと未決勾留は、被告事件の審理の必要上なされる訴訟手続上の拘禁であつて、刑の執行でないことはいうまでもないが、その拘禁期間中本刑に算入された日数について、既に本刑の執行があつたと擬制して本刑の執行に代え、本刑の執行による法益のはく奪をそれだけ軽減することによつて、未決勾留による個人の法益侵害を適宜に調節し、もつて刑事訴訟における衡平の維持を図ろうとするにあることは疑いない。もとより未決勾留日数の通算は、裁判所の自由裁量に委せられているところではあるが、右の法意に照らし、その算入を至当とする客観的事由があるにかかわらず、一審判決がこれを看過した場合は、第二審において、量刑不当の場合に準じて原判決を破棄した上、これを是正することが刑訴法第一条の精神にかない、ひいては憲法の精神にも合するものと考えられる。しこうして、記録により認められる原審における審理の経過に徴すると、村上被告人に対する未決勾留期間は五年を越え、しかも第一の(一)の(2)説示のごとき追起訴の遷延が見られる等の事情に鑑みるとき、その一部を本刑に通算するのが至当であつたと認められる。これを考慮しなかつた原判決は失当である。以上量刑上考慮に値する諸般の事情と、幇助犯として刑責を問われた高安知彦の科刑や、本件村手被告人に対する原審科刑との権衡等を彼此勘案するとき、村上被告人に対しては、有期懲役刑を選択処断し、かつ原審における未決勾留日数の一部を通算するのが相当であると認められる。原判決が、これに対し、無期懲役刑を選択処断したのは、量刑重きに失し、これを破棄しなければ明らかに正義に反するものと認められる。

よつて、刑訴法第三九七条第二項に則つて原判決を破棄し、同法第四〇〇条ただし書に従つて、さらに次のとおり判決する。

村上被告人に関し、当裁判所の認定した罪となるべき事実、これを認めた証拠、法令の適用は、同被告人に関する原判決摘示の(事実)(証拠)(法令の適用)欄記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。ただし(証拠)については、〔二二六〕〔九六〕〔九七〕〔二二九〕〔二二八〕の中、先に採証に適しないものと認めた部分を除き、(法令の適用)については、「所定刑中無期懲役刑を選択し、第二の(八)、(九)、(十)の罪につき、それぞれ所定刑中懲役刑を選択し、以上は刑法第四五条前段の併合罪であるが、その内の一罪につき無期の懲役に処すべき場合であるから、同法第四六条第二項を適用して他の刑(ただし没収を除く。)を科さず、被告人村上国治を無期懲役に処する。」とある部分を「所定刑中有期懲役刑を選択し、なお第二の(八)、(九)、(十)の罪につき、それぞれ所定刑中懲役刑を選択し、以上は刑法第四五条前段の併合罪であるから、同法第四七条本文、第一〇条、第一四条を適用して、最も重い第二の(七)の殺人罪に法定の加重をした刑期範囲内で、村上被告人を懲役二〇年に処する。と訂正する。なお未決勾留日数の通算については刑法第二一条を、没収については同法第一九条第一項第二号、第二項本文を適用して、各主文のとおり言渡し、かつ原審ならびに当審における訴訟費用中同被告人に関する分は、刑訴法第一八一条第一項ただし書に従つて、これを同被告人に負担させないこととする。

村手被告人の控訴については、その理由がないから、刑訴法第三九六条に従つてこれを棄却し、当審における訴訟費用中同被告人に関する分は、同法第一八一条第一項ただし書に従つて、同被告人に負担させないこととする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 豊川博雅 裁判官 雨村是夫 裁判官 中村義正)

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